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これは裁判員制度の問題ではない。日本の司法システムに正義はあるか、の問題である [Ethics]

ETV特集「“死刑裁判”の現場~ある検事と死刑囚の44年~
放送日 :2010年 5月30日(日)
放送時間 :午後10:00~午後11:30(90分)
番組HP: http://www.nhk.or.jp/etv21c/

裁判員制度が始まり司法への関心が高まる中、最高検察庁元検事土本武司氏は自ら現場で向き合ってきた「死刑」の現実を今話しておかなければならないと考えるに至った。

裁判員制度が始まり、司法への関心が高まっている。千葉法相は死刑について国民的議論をしたいと述べた。こうしたなか1人の人物が重い口を開こうとしている。最高検察庁元検事、土本武司(75歳)である。土本さんは「国民的議論」のために、これまで自分が司法の現場で向き合ってきた「死刑」の現実について今話しておかなければならないと考えるに至った。番組で土本さんの体験を再検証する。そして死刑に関する思索を深める。
【朗読】加瀬亮, 【語り】濱中博久

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http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html

裁判員制度が始まり、司法への関心が高まっている。千葉法相は、死刑に関して国民的議論をしていきたいと述べた。こうした中で元裁判官など司法関係者も発言し始めている。しかし依然として厚いベールに覆われていたのが“検察”であった。その最高位にあった人物が重い口を開こうとしている。最高検察庁元検事、土本武司氏75歳である。
検察は、司法の中で唯一、捜査の初期段階から最終の判決確定まで一貫して現場に立ち、また死刑の執行を指揮する立場にもある。いわば死刑について最もよく知る立場である。土本氏は「国民的議論」のために、これまで自分が司法の現場で向き合ってきた「死刑」の現実について今話しておかなければならないと考えるようになった。
土本氏には、死刑をめぐって生涯忘れられない記憶がある。31歳の時、自ら取り調べた容疑者(犯行当時22歳・一人殺害)に死刑を求刑し、最高裁で確定させた事件である。死刑囚となったその青年と、土本は死刑が執行されるまで手紙を交わしていたのだ。手紙から、変わりゆく死刑囚の心情をくみ取った若き日の土本は、執行を止められないかと上司に恩赦をかけあうが死刑は執行された。「検事」と「人間」―ふたつの人格が心の中でせめぎあう。
土本氏が自らの体験を公にしようと決意した最大の理由は、裁判員制度の開始である。人を裁き、死刑を言い渡す義務を負わされる市民に、死刑の現実は全く知らされていない。これまで、死刑囚のプライバシーを理由に一切の情報が遮断されてきた。死刑についてはこれまで情報が無いために、正面から議論されることもほとんど皆無だった。また議論があっても、それは死刑を知らない机上の議論でったと土本氏は感じている。土本氏は、現場で考え続けてきた自らの思いや、死刑の現実を通して知ったその「重み」を伝えることで、開かれた議論のために一石を投じたいと決意している。
番組は、これまで日本の司法界でどのような議論が行われてきたのかを振り返りながら、その中枢で一人の検事が死刑とどう向き合ってきたかを再検証する。そして死刑に関する思索を深める。


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土本武司が検事なりたて(東京地検、八王子支部)のころに担当した事件を番組では取り上げている。いま、土本はこの死刑判決それに死刑の実施に疑念をもっている。

死刑囚の名前は長谷川武。事件当時22歳。長谷川の家は貧困であった。父は経師屋(襖などを修理する職業)だったが片足がなく、普段から酒を飲んでいた。昭和26年、酔っぱらって都電に轢かれて死んだ。血にまみれた死体を毛布でくるみ、母と武が引き取ったそうである。

武は小学校中学校と目立たない生徒であった。母が地下鉄駅前で新聞を売って子どもたち(二人)を育てた。

武は中学を卒業し(高校には行けなかった)、職を転々としたが、最後につとめたのは近所の小さな板金工場である。社長も仕事ぶりには驚いていた。番組では社長が登場した。優秀な板金工であったそうである。自動車の側面を釘で引っ掻かれたような傷ができても、完璧に新車と同じ状態に直したそうだ。だが事件の1ヶ月前、長谷川武は工場に突然出てこなくなった。事件後社長は裁判で証人として八王子裁判所に出廷。真面目な勤務ぶりを説明して、情状酌量を求めたが、殺人に使ったナイフは工場のものであったため、管理責任を逆に問われた。社長は思い出して涙ぐんだ。
 
事件は41年5月21日昼間、国分寺市で起こった。長谷川武(杉並区高円寺に住む元板金塗装工)が住居に押し入り、主婦(40歳)をナイフで殺害し、2000円とネックレス等を奪ったのである。

八王子地裁は死刑判決を言い渡した。当時の裁判長が番組に登場したが、死刑に反対する弁護側の主張の記憶がまったくない、という。半年の審理であっさり死刑判決が決まった。長谷川には前科はなかった。こういうことも審理過程で議論されたはずである、という。

問題はまともな弁護があったか?である。なかった。貧困のため私設の弁護人をやとえなかったから、国選弁護人をあてがわれたのである。その国選弁護人の娘さんが登場した。長谷川の母親はこの弁護人にとても大きなカステラを届けに現れた。どうぞ息子をよろしく、と。娘さんによると母親は真っ黒だったそうである。精一杯の化粧をしてきたようだ、パーマ屋さんから飛んできた風情であったと。ところが、父親(国選弁護人)は、おれは国選弁護人であってあなたからやとわれているわけではないから、こんなものを受け取れない、と高圧的に追い返した、という。

第一審判決(死刑)は裁判開始から半年で出た。いったいどういう弁護が為されたのだろうか?

最高裁に上告するときの上告趣意書を、被告自らが23枚も書いているが驚くべき内容である。被告に殺意はなかった。たんに脅しでナイフをもって主婦の前に立ったのであるが、抵抗されもみあっているうち、主婦にナイフを取り上げられた、そのあともみあっているうちに刺したのである。その瞬間「しまったあ」と被告はあわてた(と、上申書に書いた)。計画性もない。なぜ、こういう証言を第一審で聴き出さなかったのか?十分な弁護活動が行われなかった、と疑われるべきである。最高裁は憲法判断、手続判断しかおこなわず事実審理はやらないのだからこの上申書も無視されたのだろう(と、土本は言う)。しかしこういう手続、処理でいいのだろうか。事実審理に疑いが残っており、かつ、上級審で事実審理をやらないのであれば下級審に差し戻さなければならない、のである。貧困者に対し、懇切な指示を与える弁護人をつけないでいいのだろうか?ということである。よくはない。貧困者であることを理由に、まともな弁護を受けさせないのは差別であり、憲法に違反している。一審の判決理由がたったの二枚しかないのに驚いた、と土本はいう。(土本は捜査検事として本件を担当し、起訴後の公判は、公判担当検事に預け、裁判には関与しなかった)

八王子裁判所で判決文を書いた泉山裁判官元(現在弁護士)が登場。当時の判決文をいま距離を置いて読んで驚くのは被告に前科がないことである、という。合議では問題にしたはずだが(前科が無くても極刑とであると)という。責任転嫁ではないが、弁護の体制があまりに不備ではなかったか、と。

この国選弁護人(小林さん)は、被告の人柄と罪の内容を聴いて控訴をすすめ、国選弁護人から私設弁護人になり手弁当(報酬無し)で被告を弁護した。あとで、母親に冷たく対応したことを悔いた。小林弁護士への手紙に長谷川は500円札を同封した。独房で仕事をしてためた金である。小林弁護士は長谷川の母からのカステラを、国選弁護人は物品を受け取ることを禁じられている、と受け取らなかったのを悔いていることを、長谷川への手紙に書いた。なけなしの金から息子を思って買ったカステラをなぜ受け取らなかったのか。息子さんを一生懸命弁護しますよ、と声をかけてあげられなかったのか。そして、この500円札はありがたく受け取る、君の好意を無にしないために使うよ、ありがとう。

これは裁判員制度の問題ではなく、裁判システムの問題である。検察の問題でもある。検察とは市民に敵対する者ではもともとない。正義の前で被告の犯罪を明らかにし、法で定められた処分(罰)を裁判所に対して請求するものである。

事実としての罪の特定も不十分であるし、与えた罰も不適当であった。裁判員制度下ではますますその傾向は放置されようが、問題は現状の裁判システムにある。

長谷川武は42年の正月、年賀状を土本に出した。受け取った土本は一瞬、怨嗟をぶつけてきたのか、と思ったがそうではなかった。土本に対し世話を掛けた、という感謝の念を現した賀状であった。土本は半年後、簡単な返事を書いた。以後、死刑の前日まで、何十通も書状が土本に届く。番組で紹介していたが文字はきれいであり、文章も確かである。学校にまともに行っていない永山の初期の文字とは全然違う。


番組では、刑場の仕組みを説明していた。死刑になった事件では請求した検察官は刑場に立ち会うべし、と法律では定められているが現実は立ち会う例は少ない、という。つまり、どうやって国家が被告を殺害しているのか、という現実を眼で見ていないのである。土本はある事件の死刑に立ち会った。刑場の隣室では簡単に仏式の焼香がなされる。土本はこの部屋でまもなく刑死する被告のとなりに立って死刑囚と共に南無阿弥陀仏と称え、焼香した。並んで焼香している死刑囚の袖が、土本の袖に触れる。死刑の直前に隣の立会人席への移動を求められる。刑場とは、茶色のカーテンだけで隔てられている。教戒師の読経がはじまる。数人の看守に取り囲まれ、刑壇に死刑囚が連れてこられ、カーテンの奥に消える。読経の音が一段と大きくなる。空気が最高度に張りつめた、つぎの瞬間、その緊張を破るように凄まじい音が響いた。死刑囚は手錠がかけられており膝の当たりを縛られている。教戒師が死刑囚の胸に付けてやった花の花びらが散った。医務官が宙づりの刑死者の目隠しを取り外し、死の三兆候を確認する。脈拍心音瞳孔。絶息を確認する。

##

長谷川は刑が確定後も、面会に来る母親をなぐさめたりしていた。

長谷川は多くの書状を土本に出した。土本の人柄を文面から感じ取ったのかも知れない。土本が札幌に転勤してからも文通は続いた。

長谷川は拘置所で罪を自覚し、自覚すればするほど苦しくなると、訴える。しかし、自分はきっと立ち直って見せます、と言う。しかし、彼は、死刑が確定しているのだ。



刑務所は、死刑判決を受けた受刑者の心を安定させるため、希望すれば小鳥を飼うことを許していた。 長谷川も文鳥を独房で飼っていた。 文鳥に与太郎と名付け、与太、と呼んでいた。

45年1月、土本に行動を起こさせる(刑場の立ち会い)原因となった手紙が、刑務所にいる長谷川から届いた。刑務所の窓から長谷川は鳥を観察していた。あるとき、こんなことがあった。

「。。カラスが小雀をかみ殺した光景を偶然眼にしました。そのとき親雀があの小さな体でカラスに立ち向い、小雀を奪い返そうとしたが、結局はかなわず、悲愴な鳴き声を上げて逃げていったものの、木枝にとまってカラスを睨み付け鳴いていました。あのときほど、カラスが憎いと思ったことはございません。と、同時に、僕はあのカラスだったのか、と自分を呪いました。でも、よく考えればあのカラスだって自分の巣に帰れば餌を待っているひな鳥がいるのでしょう、ひな鳥に餌を運びたいために小雀を殺したのだろうな、ところが、この僕はどうであろう、と思いました。カラスとは全然違うではないか。あのカラスにも劣るではないか。同じ生命を奪い、奪った行為は同じでもカラスの生存のためとは違って、僕の場合自分の享楽が過ぎたものではないか。僕がいつカラスほどの生活苦に喘いだろうか。いつ、ひとの生命を奪うほど、ひもじいおもいをしただろうか。全然そんな経験はないではないか。欲望が人一倍で、キショクコウショクをもとめひとの財を嫉妬し、怠慢のはてが自分を苦しめ、それが現在の僕ではないか。カラスにも劣るのではないかと思いました。。。」

いま、この手紙を読みかえし、土本は言う。「このひとを、かりに、いま社会にもどしたら、もどせれば、重大な凶悪事件を犯すおそれは一点だにも無い。こういう人間を刑場にひきつれなければならないのか、。。と当時考えた」
 土本は学生時代の恩師、牧野英一の<教育刑論>(刑罰は受刑者を教育、更正させるためにある)に心から共感し(しかし、牧野は死刑については生涯、明確に語らなかった。なぜ死刑廃止を叫ばなかったのか、できれば恩師の墓を掘り返して尋ねたい、と土本は言う)、検事に任官する前は、死刑を廃止するにはどうしたらいいか、と真剣に考えた。が、検事職を続けるうちに多数の凶悪犯罪を目の当たりにし、やがて、牧野学説は理想論であると死刑への疑問を封印するに至った。
  
牧野英一@Wiki
   
    
上記の手紙の前に、長谷川受刑者はつぎのような手紙を土本に書いている。
  
「。。検事さん、僕がもし生まれ変わることができ、職業を選べといわれたら、僕は自分が今までやってきた仕事をもう一度やってみたいのです。僕が歩んできた道を振り返りたいのです。僕がどうしてどこで間違ったのか、納得のいくところまで自分自身で見極めたいのです。現在苦しんでいないかというと、そうではないのです。一個の人間として過去の事々が苦しい。かといって、僕はこの苦しみから逃げようとしない。なぜなら、これらの苦しみも含めて罪の償いの一部と考えるからです。いま一個の人間が目覚めようとしているのです。ところが、目覚めれば目覚めるほどその反面苦しさが増すのです。だがそれを乗り越えてこそ本物になるとおもうのです。僕は絶対立ち直ります。。。」
   
注:記事中、       部分の手紙の引用はTV放送からの聞き取りである。文面通りの保証はない。 
  
  
元検事=土本武司、は先週の死刑囚・永山則夫を扱ったこの番組(再放送)にも登場した。永山則夫に対する高裁判決(無期懲役)に異議を称えた検事である。死刑が当然である、と言っているのだ。昨晩放映されたこの番組では「死刑という判決があったのち、いつまでも拘置を続けるのはよくない、死刑を実施するのが法治国家として当然であり、その意味では死刑が行われたのは当然であって、制度全体としては死刑執行されてよかったとおもっている。死刑判決が確定しながら法的な特段の理由もないのに死刑をやめるのは自ら法治国家を破壊することになる。。。。」と、番組インタビュアに対して発言し、「本当にそうお考えなんでか?」と問われ、「いや、検事としてそうおもっていた。ただ、個人として彼と文通したいまとしては、別の見解もある」と言い訳をしている。

 
長谷川死刑囚から土本宛の最後の手紙は昭和46年11月8日。
 
「検事さん、逝くときが来ました。検事さんには長い間ご心配をおかけしました。残念ながら時間がありませんのでひと言のご挨拶だけに留めます。検事さんのあの暖かい眼差しは最後の最後まで忘れません。それではこれで失礼します。 46.11.8 減灯後」
   
翌九日午前、東京拘置所で処刑が執行された。逮捕から5年半。享年28歳。
処刑された後、母親が遺骨を引き取った。それから地下鉄駅前で新聞を売る母を見掛けなくなった。母は、直後、事件現場近くの駅のホームから電車に飛び込み自殺したのである。
 
長谷川死刑囚の骨は無縁仏として父の故郷伊勢崎市のある寺で供養されている。
 
長谷川武100531_1031~01.JPG
 
  
死刑から40年が経過しているのに裁判関係の全資料は、公開が法律で義務づけられているのに、プライバシーを理由に公開されていない。元検察官の土本武司の資料公開請求にも部分的に応じただけである(なぜ、国会は公開を命じないのか)。さらに、死刑を含む刑罰は<国民>の名で下されるのであるのに、刑場の仕組みなども公開されていない(番組では関係者から収集した情報をもとに、推測して現場映像を作成し放映していた)。国会は刑場を国民に公開するよう政府・法務省に命じるべきである。検察の大部分も、義務づけられているのに、刑場における死刑立ち会いを忌避しているということである。司法修習生時代から刑死現場の立ち会いを義務づけこれを忌避する者は司法職に付くことはできない、と定めるべきである。貧困は犯罪の母体である。貧困の極限にあった永山則夫や、長谷川武のような国選弁護人に弁護を依頼した場合、とくに重刑、極刑をくだされた事件については十分な弁護が行われたのか、第三者機関あるいは弁護士会などが調査を行うべきである。裁判において個人被告は圧倒的に不利な状況にあるからである。審理が終わり刑が確定するまでは被告もひとりの国民としての権利の享受を可能とすべきである。



 
関連記事:
 暗黒裁判の国、日本。 『公認会計士vs特捜検察』 細野祐二
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-12-09
検察による捏造事件 『いったい誰を幸せにする捜査なのですか』草薙厚子  
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-05-20

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古井戸

ビデオを見返してみた。 見落としと誤解があったので訂正を含めてコメントする。

小林健治弁護士は第二審から、東京弁護士会に依頼されて担当した国選弁護人である。(第一審も国選弁護人。名前は不明)

第一審の死刑求刑から五日後、被告は母親に手紙を書いた。求刑通りの刑を受けたい、控訴したくない、そのほうが本当のような気がする。。。

母親はこの手紙を読んで驚き、小林弁護士宅を訪れたのである。むすめさんの表現によると、1メートル前後のおおきなカステラを提げて。日記の通り、小林弁護士は国選弁護士はこんなものをもらうわけにはいかないのだ、持って帰れ、と追い返した。

小林弁護士は一審の経緯を調査し、死刑にするには忍びない、と考えて国選から私選に切り替えて、控訴したくないという被告を説得し、手弁当で二審の弁護に当たったがその甲斐無く控訴は棄却された。

ビデオを見て土本に対して失望と怒りを禁じ得ない。彼は嘘を言っている。第一審の裁判官と共に許せない。

彼は、血の海になった被害者宅を訪れ警察と共に捜査に当たった。被害者の怒りを慰撫するために検察は存在するのであろうか?刑罰は被害者を慰撫するのが目的ではない。法律に基づいて与えるべきなのである。(被害者家族が裁判所で刑罰について発言するなど飛んでもないことである)彼はどのような捜査取り調べを行ったのか?番組では、取り調べでは不利なことは黙秘して構わない、ということは被害者は当然知っているはずである、などとシャアシャアと述べている。そんなことを知っているわけがないではないか。それでなくても、自白だけで、殺意も計画性ももっていた、とどうして断ずることができるのか?中学卒業の学歴しかなく一時の出来心により盗難をこころみ、誤って殺してしまった、ということはありうることである。境遇が境遇であればわたしも起こした事件であるかもしれない。土本は予断により取り調べを行い、死刑を求刑したとしか考えられない。その後何通も文通したことにより、被害者の人間性がわかってきたのである。

死刑は、
罪責が重大、あらゆる情状を考慮してもなお、極刑は避けられない
場合に限られる、という。

いったいどんな<あらゆる情状>を考慮したのか?

判決理由はたった二頁。「犯罪は残忍・非道、被告は罪を反省することなく、その残虐性、社会的危険性は誠に強度、極刑をもって臨むしかない」

これは、文例集にでもありそうな安っぽい、おざなりな判決理由である。

被害者は深く反省していた。被害者の人間性など、予断をもった取調官が簡単に引き出せるものではない。なぜ、土本はこの経験から、死刑という刑罰の危うさを認識しないのだろうか。団藤重光はカールポッパーの死刑反対理由をあげている。「人間は過てるものである」故に、死刑反対である、とする。まさにこの例がそれをものがたる。



土本は、番組の最初に、裁判員制度に言及し、裁判員は死刑事件も担当することになる。しかし、裁判員は拘置所の実態も、死刑場の実態も、絞首刑がどのように実施されるのか知らないのではないか、と懸念している。大きなお世話である。それを言いたいのなら裁判官や検察に対して言いたまえ。

いったい、死刑判決を与えた裁判官で、絞首刑に立ち会ったものが何人いるか?絞首刑の実態を知っている裁判官が何人いるか?ゼロ、だろう。団藤重光でさえ、刑場の実態をしったのは最高裁判事に任命後である(それとて、実際の死刑を見たわけではない)。検事でさえ義務である刑場立ち会いを忌避していると言うではないか。

裁判官や検察官の給与は誰が出しているのか。よく考えてモノを言え。

土本は捜査取り調べをおこなった当時の自分を振り返って、被告の人間性を理解するにいかなかった、と告白している。これは重大である。手紙を読んで、ああ、そうだったのか、と。 ならば、長谷川死刑囚の例から引き出す教訓が間違えていないか?検察の取り調べのありかたと、弁護のあり方。さらに、死刑事件を30歳そこらの若造検事に担当させてよいのか、ということだ。

裁判員制度についていえば、現在死刑囚に関する情報はプライバシを理由に公開されていない。しかし、この事件をみてもわかるように十分な審理をつくさずおざなり判決で死刑になった死刑囚は多い、と推測される。国会は法務省に、あらゆる裁判記録を公開するよう命令すべきである。さらに、この事件を教訓にするならば、土本は、取り調べの記録と公開に賛成すべきではないか(裁判員制度などより先に実現すべきことだ。裁判員に期待するのであれば、裁判員制度にかかる予算はすべて、裁判官や検察官の給与から補填せよ。彼らの無能のために裁判員の援助を頼むのだから当然のことだ)。
by 古井戸 (2010-06-01 01:11) 

古井戸

刑場はネットで公開されている。
http://www.geocities.jp/aphros67/030600.htm

そのほか、刑場+絞首刑、などで検索すれば多くのヒットを得る。

私が劇場で見た映画、Dancer In the Darkのラストシーンが有名である。 絞首刑シーンは五分40秒前後から。
http://www.youtube.com/watch?v=yu5f_T2wcRI
骨の砕ける音が入っている。
by 古井戸 (2010-06-01 01:28) 

ゆうこ

古井戸様
 初めまして。
 先日は、弊ブログ(http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/b768e05d9538e6eb6c64d90aa0c74cfc)へTB有難うございました。本エントリと同様、番組内容を丹念に綴られたご労作、感謝と感動のうちに拝見しました。
 本エントリも拝見し、まず土本氏の意外な一面に驚愕しました。が、コメントを拝見し・・・。
 長谷川死刑囚の書簡、切なくなりました。いわゆる永山基準からは長谷川氏への量刑は考えられないことですし、被告人の利益がまったく守られていない弁護に今さら取り返しのつかない無惨を感じました。検察のありようも、然りです。
>しかし、裁判員は拘置所の実態も、死刑場の実態も、絞首刑がどのように実施されるのか知らないのではないか、と懸念している。大きなお世話である。それを言いたいのなら裁判官や検察に対して言いたまえ。
>裁判官や検察官の給与は誰が出しているのか。よく考えてモノを言え。
 痛快です。拙いですが少し触れてみました。
 「死刑とは何か~刑場の周縁から」http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/itami.htm

 古井戸さまのブログ、RSSに登録しました。拝見し、考えてゆきたいと思っています。感謝のうちに。
by ゆうこ (2010-06-23 10:56) 

古井戸

ゆうこさんへ。
HP一部拝見しました。
死刑にはイロイロ論点がありますが、まず、そのまえに冤罪が多すぎる、有罪率が高すぎる、という問題をクリアにしないとイケナイでしょう。土本はそこには目をふさいでおり、死刑制度が存在する、故に、死刑を実施する、と。。これは何を言ったことにもならない。捜査と取り調べがいい加減である、という実情には目をふさいだまま。永山事件の放送でも土本は番組に登場していましたが、死刑ではなく、刑罰を与えるにあたって、犯罪は何故起こるか、という視点が非常に希薄(これは土本だけに限らない。国民全体がそうなっている)。刑罰は何故与えるのか、ということ。貧困層に犯罪が多い、金持ちや国家を含めた組織の犯罪には非常におおらかな刑罰しか与えられない(たとえば、薬害や、アスベスト、あるいは派遣切り)。刑罰付与の法律ではなく実施面に正義がないとわたしはおもう。
さらに、刑罰は、犯罪者に対する被害者、被害者家族の復讐心を満足させるためにあるのではない(民事でなく刑事事件として国家検察が起訴する所以)。被害者家族が死刑にしろ!と叫べば重刑になり、そうでなければ微罪で済む、という話ではないでしょう。被害者家族が、審理途中に検事席にすわって被告に質問を発するなど論外です。疑わしきは罰せず、という原則のカケラもない。

被害者を家族あるいは親族にもつ裁判官や検事(あるいは裁判員)が、事件の裁判過程に係わることができますか?審理からは除外されるでしょう。現状、被害者家族が法定外で意見を言うのは自由だが、法廷で意見を述べるのは公正な裁判を阻害するこういであるということをマスゴミは認識すべき。

被害者を慰撫するのは、裁判の目的ではありません。刑罰による以外の方法で、国家が責任を持って行うべきです。それを放棄するなら、裁判によるのでなく、犯罪を国家が裁かず、江戸時代以前の仇討ちを採用し、当事者同士で、決着をつけさせればいいのではないでしょうか(武器所有を認める。返り討ちもあり)。国家としては安上がりです。



若干補足を。

>>裁判官や検察官の給与は誰が出しているのか。よく考えてモノを言え。

これは単なる啖呵ではありません。

裁判員にかんする記事で述べたと思うが、裁判員制度は検察庁の意見を強く反映して出来上がった制度(つまり、市民からの裁判批判をあらかじめ防止するための姑息な手段として)。一部の弁護士会からも、裁判員制度に同調しているのはまことに不審。「市民も裁判に寄与すべき」などと平気で述べている。<いったい、裁判所、検察庁諸々の司法関連施設職員は誰の委託を受け、誰の金で賄われているのか>をよく考えればこんな発言は出ないはずだ。一般国民はオノレが選んだ職業についてその俸給の一部を税金として収めて、裁判に限らず、公務員のあらゆる分野の活動を(国民に奉仕する物として)支えているのである。国民の仕事を中断して、裁判員として指名し、これを理由なく拒否すれば罰則、というふざけたきめごとをどうしてできるのか。

むしろ、世間に無知な裁判所検察の職員が、数年ごとに一度、教職、運送会社、郵便局、道路工事、八百屋、レストラン、廃品回収、派遣職員、。。。に就いて職業の現状を知るべきではないのか?(仕事の邪魔をするのだから自腹で授業料を払って欲しい)。

現状、裁判の問題は、冤罪、被告の人権無視など取り調べと捜査に集中しているのにこれを改善するための措置を検察は取ろうともしない。取り調べの可視化、理由なき長期拘留の廃止など(裁判所が認めなければよいのだが、現状、裁判所は、検察庁の下部機関に成り下がっている)。

このように考えて、この記事のタイトルを付けたわけです。
by 古井戸 (2010-06-24 04:55) 

古井戸

余録

この番組で、死刑囚の出した手紙を朗読したのは俳優・加瀬亮である。どこかで聴いた声だとおもったが。。

『それでもボクはやってない』の被告役だった。
3年前の映画。私もブログで映画評を書いた。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-02


『それでもボクはやってない』加瀬亮 単独インタビュー
http://movies.yahoo.co.jp/interview/200701/interview_20070119001.html
加瀬(フリーター)は取り調べに対しやっていないと、罪を認めず、数週間刑務所で暮らすのだが、拘置所生活で歯を磨くシーン。周防監督から「泣ける?」と尋ねられはじめてこれは「喜劇映画ではないのだ。。」とわかった、と述べている。二十歳前後の青年が覚えのない罪で拘禁され数週間刑務所で暮らせば心弱くなるだろう。わたしも。。同じ年代のコロ、同じ目に会えば、歯を磨くとき鏡に自分の顔を見て、母や家族を思い出せば、嗚咽するのじゃないか。。と、思ったりする。検察がここにつけこまぬわけがない。



アメリカ人弁護士が見た裁判員制度 (平凡社新書) コリン・P. A. ジョーンズ (著)
ジョーンズさんは日本生活の長い米国人弁護士である。この本の前書きで述べていたが、日本の痴漢事件(とくに電車内)をかりに米国で裁けば、ほとんどすべて無罪、だという。証拠がないのだ。日本における痴漢事件の有罪率は? ニッポンの検察・警察のいかに優秀であることよ。

by 古井戸 (2010-06-24 06:21) 

月光

 日弁連・会長:宇都宮健児は、「虚偽(詐害行為)は正当な弁護士業務だ」と主張(議決)して、懲戒対象弁護士を擁護し、これを撤回せずに、裁判で争っております。

 弁護士を指導・監督する立場にある宇都宮健児のこの行為は、不法行為を教唆するものであり、国民への背任です。

 表向きは、社会正義の実現(弁護士法1条)を強調しながらも、裏陰では、「虚偽(詐害行為)は正当だ」と指導しているのですから.弁護士トラブルが急増するは当然です。
 
 日弁連・会長:宇都宮健児らは、提訴し、勝訴するための「虚偽は正当だ」との理念を抱き、当然のように実践する人間たちだということでしょう。
 

 そして、組織的な権力を得ている日弁連・会長:宇都宮健児らのこの裏影での卑劣な行為を国民は知ることができず、それをとがめる手段もないのです。

 国民は、日弁連・会長:宇都宮健児らのこの卑劣な事実を知るべきであり、この元凶者たちを排除すべきです。

法曹界に正義はありません。

by 月光 (2010-12-03 22:49) 

古井戸

10月13日、毎日新聞朝刊に次の記事が掲載された。


死刑の違憲性:「絞首刑は限りなく残虐」元最高検検事
2011年10月12日 12時1分 更新:10月12日 13時17分
http://mainichi.jp/select/today/news/20111012k0000e040049000c.html?toprank=onehour

 5人が死亡した大阪市此花区のパチンコ店放火殺人事件で殺人などの罪に問われた高見素直被告(43)の裁判員裁判で、争点となった「死刑の違憲性」の審理が12日、大阪地裁(和田真裁判長)であった。元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授が弁護側証人として出廷、死刑執行に立ち会った経験を振り返り、「絞首刑はむごたらしく、正視に堪えない。限りなく残虐に近い」と証言した。

 土本氏は東京高検検事時代、死刑執行に立ち会った際の手記を手に手順を説明。「(絞首台の)踏み板が外れる音がした後、死刑囚の首にロープが食い込み、宙づりになっていた。医務官らが死刑囚の脈などを確かめ、『絶息しました』と告げていた」と振り返った。

 さらに「少し前まで呼吸し、体温があった人間が、手足を縛られ抵抗できない状態で(ロープにつられて)揺れているのを見てむごいと思った」と証言した。

 絞首刑を合憲とした1955年の最高裁判例については「当時妥当性があったとしても、今日なおも妥当性を持つとの判断は早計に過ぎる」と述べ、否定的な見解を示した。

 また、11日に証言したオーストリアの法医学者の研究を挙げて「絞首刑は苦痛と身体的損傷を生じる」と指摘。約60年前に絞首刑は最も苦痛がない死に方と指摘した法医学者の鑑定について「正しくない」と述べた。
by 古井戸 (2011-10-13 08:10) 

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