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後藤乾一著『「沖縄核密約」を背負って- 若泉敬の生涯』  他策はなかったのか? [Politics]

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      (表紙写真は戦没者慰霊碑前にぬかづく若泉敬@沖縄)
昨年ある偶然から、若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の存在を知り図書館で借りて拾い読みした。原著は1994年5月文藝春秋社から刊行、昨年、軽装版が同社から再刊された(先週、これを購入、1800円+税)。600頁を超える大冊である。

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』〈新装版〉出版社案内
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163721903
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若泉敬とはいかなる人物か? Wikiが簡略にまとめている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B3%89%E6%95%AC

若泉 敬(わかいずみ けい、1930年3月29日 – 1996年7月27日)は、日本の国際政治学者。沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。
(以下略)


若泉敬の評伝が最近刊行された。後藤乾一著『「沖縄核密約」を背負って- 若泉敬の生涯』(岩波書店、2010年、1月)。図書館で借りて読み終えたところである。

『「沖縄核密約」を背負って- 若泉敬の生涯』  出版社案内http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0224030.html
編集者からのメッセージ
評伝の著者、後藤乾一(1943年生まれ)は若泉の知人であり、若泉より一世代若い。この伝記を読んで若泉のなんたるかがほぼ分かった。Wikiに書いていないことを中心に要約しよう。

1 国際政治学者であった若泉はある偶然から佐藤(首相)に見出され首相特使として米国との沖縄返還交渉を委ねられる。主たる交渉相手はニクソン大統領の補佐官キッシンジャーである。

2 沖縄は終戦時から米軍が上陸したまま沖縄全島を実質支配し、日本本土と異なり、施政権を70年に至るも返還していなかった。佐藤は「沖縄復帰無くして戦後はない」と演説し、自政権による沖縄の返還実現にこだわった。

3 ニクソン政権は核の持ち込みなどは当然のことであり、議論をする耳を持たなかった。非核三原則と本土並返還にこだわった佐藤と真っ向対立する条件である。

4 返還交渉に当たり、米側は継ぎのように主張した。後藤の著書p211から。「若泉はキッシンジャーと会う前日、もっとも心を許しているハルペリン(八歳年下の国防次官補代理ハルペリンとは”同志的友情”で結ばれていた)から米側とくにNSCの感触を聞き出していた。ハルペリンは、沖縄返還につき軍部や議会を説得するには、有事緊急時における核の再持ち込みについての日本側の保証が絶対的条件であり、それを両首脳間の「秘密の了解事項」とし、かつ双方の後継者をも拘束するものであることが必要だ」とくり返し強調した。 (2011/2/22追記: 核持ち込みなど、実はどうでもよかった。ハルペリンは、当時、核弾頭発射能力を持つ高性能原潜や空母により、陸上の核基地など無意味になったことを隠して、有事核持ち込み交渉に集中させ、日本の半永久基地化をゲットした。ハルペリンは、この大きな外交的成果を堂々と公表した。このことを後で知った若泉は壊滅的なショックを受けた)

5 米軍部側の強硬な姿勢をふまえての69年7月18日のキッシンジャーとの交渉でつぎのように述べる(後藤著書、p211)。
「佐藤氏は現在の日本国内における政治情勢に鑑み、米国が、沖縄返還後、緊急事態において基地を自由に使用することが可能であるということを公然と認めることはできない。」
「私見では、大統領との首相との間の秘密の了解事項としておくべきか、あるいは何ら別の方法を取るべきかという極めて重要な問題が出てくるであろうと思われる。もしそれが秘密の了解事項であるとしても、それは両国政府首脳の後継者を拘束するものになるであろう」(若泉著書p287)。

この結果、ニクソンと佐藤の間で密約がかわされることになる。
Agreed Minute to Joint Communique of United States
President Nixon and Japanese Prime Minister Sato (Draft)
21st November, 1969
http://www.niraikanai.wwma.net/pages/archive/wakai.html

佐藤は若泉と会うときつねに一対一であった(首相秘書にも同席させなかった)。沖縄返還には<核密約>が必須であることを、非核三原則にこだわる佐藤はなかなか理解と承認を与えず、説得に若泉は苦労を要した。

6 米国南部出身のニクソンにとって、核持ち込みなど当たり前のことで争点ではなく、地元産業=繊維業界から突き上げられている関税問題(当時、日本は米国からの繊維輸入に高い関税を課していた)しか頭になく、繊維関税の撤廃が最重要課題であった。結果、キッシンジャーや若泉は以後、繊維問題の解決に悩まされることになる(もちろん、佐藤も。繊維業界への多額の支援などで、結局関税は撤廃された)。

7 1980年、若泉の故郷である福井県鯖江市に転居した(それまでは東京に自宅があった)。夫人と共に海外著名人(外国人の鯖江参り、が始まった)を多数自宅に招き、民間外交に努める。妻(ひなを)は1985年55歳で亡くなる。妻は優秀な弁護士であり家計および夫の活動を経済的にまた精神面で支えた。若泉は返還交渉で要した国際電話代も自費で賄った。当時で月額30万円以上を費やしたという。鯖江の豪邸建設費もそうであるが、これは妻の収入無くしては考えられない。

8 1992年勤務先(京都産業大学)を依願退職した(若林は1966年から同大学の国際問題研究所@東京に勤務していた)。翌年にかけて回想録(密約の経緯)を執筆。1994年5月『他策ナカリシヲ信じゼムト欲ス』を公刊する。


以下は私の感想である。

1 年表によると若泉は若い頃から、学生運動に反対する論文を投書したり、国際問題研究者になってからは日本の安全保障(核抑止)の必要性を称えたナショナリストである。であれば、米国の核持ち込みは、米側から押し付けられたというより若泉自身の主張である。残る問題は若泉が、佐藤をどのように説得したか、である(佐藤は最後まで説得されたつもりではなかったのではないか?という疑いがある。だから、ノーベル賞を受賞しても平気で居られた)。<他策>がないのであれば、陸奥宗光と同じように開き直っておればよいのである。核抑止は必要である、核持ち込みもしたがって必要である、と、沖縄&本土人を説得すべきなのである。
100509_1110~01.JPG晩年の若泉敬(後藤の著書から)


2 若泉は、橋本左内(安政の大獄で処刑)と陸奥宗光を尊敬していた、という。しかし、十五歳にして「稚心を去れ」と説いた左内のどこを学んだのか?と問いたい。左内を信頼するのであれば、なぜ、晩年になって<外交機密>を漏らしたり、家族(二人の子息)を義絶し、遺産を子息に与えず、すべて公に寄贈するなど、軽薄な行動に走ったのか(若泉のこの行動に対し、夫人・子息の知人から反対が多く、若泉はそれを押し切り、以後、人間関係がもつれた。身の回りを適切に処すことができない人間に国際問題を仕切る能力など期待する方が無理であった)。

啓発録
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/jpn/sanai/keihatu.html
橋本左内
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E5%86%85

若泉敬の書物の題名は陸奥宗光の『蹇々録(けんけんろく)』から取ったものである。日清戦勝に続き、清国との講和条約を締結した直後(1995年4月)、三国干渉に遭遇し、総理大臣伊藤と共にその処理に当たり、<干渉>を大部分受け入れざるを得なかった言い訳と、やるべきことはやり遂げたという自負を示している。陸奥宗光は外相として、開戦を渋る首相伊藤博文を謀ってまで、参謀次長川上操六とともに日清戦争を起こした男である。同時に、陸奥は米国駐在公使時代にメキシコと平等条約を締結し、外相となってからは各国と不平等条約の改正に力を尽くした(陸奥が今生きていたら現在の日米安保条約や、地位協定に満足していたろうか?)。清国との講和条約交渉には陸奥は伊藤と共に全権として当たった。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』とは、策を立て、承認しうる全権者のみが吐ける評価であり弁明である。特使あるいは密使として全権者の指示にしたがって(建て前は)行動すべきものが口にするべきことばではない(密使が密約を公表することの可否とは、別のハナシである)。もっとも、こういう言葉を抵抗無く使えた、ということは、密約成立の情況と、佐藤元首相の極楽トンボ、密約の必要性に対する理解(無理解)ぶりを表現していて面白くはある。

陸奥は薩長以外(紀州)の出身であり、薩長ネットワークの利得により無能であっても官職が授けられる薩長出身者の位置にはいなかった。したがって彼は家族を含め人間関係にことさら気を配り、これを大事にした。若泉が学ぶべきはこういうところではなかったのか? オトナの基本である。なかんずく政治家、外交家の。

陸奥宗光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89
100509_1111~01.JPG陸奥宗光。妻亮子、と長男廣吉とともに。@1896


3 密約文書は、米国で30年後公開されることは分かっていたはずである。国事犯になることを覚悟で(若泉は、国会召喚された場合の弁明まで実演して準備したという)若泉が弁明書を書いた理由は(さらに生活破綻にいたった理由は)、核持ち込み、というより、本土並みといいながら、終戦時から始まった米軍による長期の不法駐留=施政権の長期保留、沖縄住民私有地の強制接収をゆるし、原状回復することなく居座り続けた、そのことへの負い目があったからではないのか。長期駐留、その不法を突くなど、沖縄返還交渉には十分<他策>があったのではないか、と私は疑う。70年に解決(基地無し返還)しなくても長期戦で挑めば、冷戦終了時に、片務条約の廃棄、沖縄領土返還という道筋も設定できたはずではないのか。後藤乾一はp333以降で若泉がなぜ本書を公刊したか、の理由を4つ推定している。が、いずれもポイントを逸している、とわたしはおもう(後藤は若泉の知人であるからその見解はそれなりに尊重はするが)。

4 弁明書『他策。。。』を書き上げた後、若泉は沖縄慰霊碑の前でぬかづき(その場で自裁する覚悟であった、という)、謝罪したことを証すために、知人である写真家に、ぬかずいているオノレを写真に撮らせたという(後藤本の表紙の写真)。自己顕示欲旺盛な国際問題研究者を<特使>として採用したのが間違いだったのか。伊藤博文の死(暗殺)を最後に政治家が日本からいなくなった、とは萩原延寿(『陸奥宗光』)の語るところだが、それを若泉と佐藤(元首相)は例証している、とおもう。若泉が謝罪すべき相手は、沖縄の人々だけではなく、沖縄人から<醜い日本人>と言われている本土人を含めた日本人全体ではないのか?不平等条約を認め、米国の属国となりながらそれを放置した外交問題専門家として、である。橋本左内や陸奥宗光を尊敬する、というのであれば、彼らがいま生きておれば如何に思索し、構想し、行動するかを考えるべきであった。若泉は、核抑止による安全保障を日本の執るべき施策と考えていたのだから、著作刊行後も、家族義絶や自死などをするのではなく、核抑止による安全保障の正当性を訴え続けるべきではなかったのか?(あるいは、沖縄の基地撤廃にむけて活動すべきではなかったのか)。密約の有無は重要なことではない。米側の資料公開によりいずれ明らかになることだ。それとも、米側が密約文書を公開せず、半永久に密約のママ封じておれば、若泉は晩年の精神破綻を起こさずに済んだのだろうか?


5 後藤乾一の著書に登場した、若泉敬の若い日からの心の友(心友)である池田富士夫のこと。若泉は公刊した『他策。。』を池田にも送り所感を求めた。池田は、便箋に200枚以上の書評を書いて若泉に返送した。若泉の計画(沖縄慰霊碑参拝、自裁)を厳しく戒めた。若泉に対し、慰霊するなら沖縄に住民票を移した後にしろ、と。若泉は末期にあたり、受領した書簡をすべて焼却したが、池田からの書簡は残したという。なにを感じたのだろうか?池田は1996年6月、病死した。若泉が青酸カリ自殺する一月前である。 わたしにとって、池田富士夫は、この書物でゆいつ強く印象の残る人物である。池田が存在しなかったらこの伝記は遥かに詰まらないものになっていたろう。

6 70年前後、沖縄が返還された頃、はじめてパスポート無しで沖縄に旅行ができることになったため大変な沖縄観光ブームになった。その頃我が家の親戚に結婚するひとがいて、沖縄に新婚旅行に行くという知らせを受けた。伝え聞いた私の父(大正9年生まれ、中国戦線の生き残り。同級生の2/3が戦死した、という)は、「沖縄は観光旅行に行くようなところじゃあないよ」と、わたしに語りかけるでもなく、独り言のようにつぶやいたのを思い出す。 軍人であった人間ならば昭和二十年、沖縄住民に何が起こったのか、いまの(70年当時の)沖縄が何をひきづっているのか、容易に想像力が及んだのだろう。



##
いわゆる「密約」問題に関する調査報告書
平成22 年3 月5 日 外務省調査チーム
http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/mitsuyaku/pdfs/hokoku_naibu.pdf
該当箇所を転載する:

(3)1972 年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みについての「密約」
この「密約」問題は、沖縄返還後に重大な緊急事態が生じ、米国政府が核兵器を沖縄へ再び持ち込むことについて事前協議を提起する場合、日本側はこれを承認するとの内容の秘密の合意議事録が、佐藤総理大臣・ニクソン米大統領両首脳の間で作成されたのではないかというものである。

(参考)若泉敬氏(1996 年死去)がその著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(以下「他策」)において指摘している件。同氏は佐藤総理の命を受けて、1969 年11 月の総理訪米を前にキッシンジャー大統領補佐官と協議を重ね、「重大な緊急事態が生じた際」に米国政府が核兵器を沖縄へ再び持ち込むことについて、日本政府は「米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要を満たすであろう」との内容の秘密の合意議事録(Agreed Minute)を両首脳が署名するための準備に当たった旨著書「他策」で述べている。

調査の結果、判明した事実関係の概要及び報告対象文書は次のとおりである。
<事実関係の概要>
<報告対象文書>
●調査した文書からは、若泉氏が準備したとされる「合意議事録」は発見されなかった。
●若泉氏が準備したとされる「合意議事録」については、当時外務省として何ら了知していなかったことがうかがわれる。
●外務省は、佐藤・ニクソン首脳会談において、沖縄返還後の有事核持込みについて「何らかの記録」作成が必要になる可能性を最終段階まで懸念し、その対応について大臣以下密かに準備研究を行っていた。しかし、結果的には、そのような文書なしにこの問題は決着したというのが当時の外務省の認識であった。
● 昭和44 年8 月15 日付け東郷アメリカ局長とスナイダー公使との会談録(再掲。前記の「文書1-6」)
● 昭和44 年11 月4 日付け東郷アメリカ局長とスナイダー公使との会談録(再掲。前記の「文書1-8」)
● 昭和44 年11 月11 日付け佐藤総理とマイヤー大使との会談録(以下「文書3-1」)
● 昭和44 年11 月19 日に行われた佐藤総理・ニクソン大統領会談録(第1回・11 月19 日午前。同年11 月27 日付けアメリカ局作成)(以下「文書3-2」)
● 昭和44 年11 月24 日付け東郷アメリカ局長作成のメモ:「共同声明第8 項に関する経緯」(以下「文書3-3」)
● 昭和44 年12 月15 日付け東郷アメリカ局長作成の調書:「1969 年佐藤総理・ニクソン大統領会談に至る沖縄返還問題」(以下「文書3-4」)

(イ)対象文書の存否について
今回調査したファイルの中からは、若泉氏が準備したとしている「合意議事録」は発見されず、この「合意議事録」の存在を示唆する記述も見られなかった。
(ロ)核再持込みに関する米側の立場
沖縄返還交渉の過程で米側からは累次にわたり、有事の際の核再持込みについて何らかの了解が必要であるとの立場を説明している。例えば、1969 年8 月15 日の東郷局長とスナイダー在京米大公使との会談の中で、スナイダー公使から、「仮に返還時に撤去すると云う所まで決まったとしても、返還後、有事の際の持込については何等かの了解が絶対に必要である」との立場を説明している(文書1-6)。これに対し日本側として対応に苦慮していた様子は、例えば、1969 年11 月4 日の東郷局長とスナイダー公使との会談において、東郷局長から「結局返還時核撤去と云うことになると考へるが、そうなれば非常時持込の問題が出て来ざるを得ないと思う。

大統領が総理にこの点を質問すれば自分の見るところ総理はイエスと言はれると思うが、そうだとしても之を記録に止めようと云うことは別問題で、若し米側が之を強く要望するのであれば総理にせよ大臣にせよ相当時間をかけて考へなければならない。」(文書1-8)旨述べているところにうかがえる。
(ハ)当時の外務省関係者の認識
(a)佐藤総理大臣の訪米を控えた同年11 月11 日、マイヤー大使は、本国からの訓令に基づいて佐藤総理との会談を求め、「返還後の沖縄への核の貯蔵の問題は、大統領が総理との会談の際に、慎重に討議したいと思っている重要問題である。」と指摘した(文書3-1)。こうしたやり取りを踏まえ、日本側としては、佐藤総理・ニクソン米大統領の首脳会談において、沖縄返還後の核再持込みが懸案となり得るとの認識を有していた。このことは、東郷局長のメモ(文書3-3)には、佐藤総理訪米後、 首脳会談直前の打合せにおいて東郷局長から総理に対し「核については、(イ)米側よりは依然何等のindication なきこと、(ロ)返還時撤去までは行くと判断されるが爾後の非常時持込について問題があり得ること、(ハ)従ってこの問題について何等かの記録を作成せざるを得ないこととなる可能性あること(後略)」を説明したと記述されているとおりである。
(b)他方、この点についての外務省当局の立場としては、この打合せにおいて総理に対し、「結論として大臣より本件解決のためには我方共同声明案のみを以てすることが最善なる所以を説得するの他なしとの趣旨を強調された。」ことが上記の東郷局長のメモ(文書3-3)で記述されている。
(c)こうした中行われた佐藤・ニクソン会談であったが、この会談の後に作成された東郷局長の調書(文書3-4)は、有事の核持込み問題について「なんら特別取決めをなすことなく、この問題は一挙に落着した。」と記述している。また、当時作成された同会談の会談録(文書3-2)においても、こうしたことについての言及は一切なく、外務省関係者は、結果的に特別な文書の作成を必要とせず首脳会談が決着したとの認識を有していた。若泉氏が準備したとされる「合意議事録」については、
外務省として何ら了知していなかったことがうかがわれる。

【追記:佐藤元総理宅に保管されていたことが判明した文書について】
平成21 年12 月下旬、佐藤総理とニクソン大統領が署名したとされる「合意議事録」
が佐藤元総理宅に同総理の遺品として残されていた旨が報じられた。調査チームにおいて、当該文書の写しを入手し、「他策」に記載されている「合意議事録」の内容と比較を行った。その結果、両首脳が署名を行った日付等の若干の相違はあるものの、その内容は、ほぼ同一であることが確認された。一方、今回調査したファイルの中からは、この「合意議事録」は発見されず、この「合意議事録」の存在を示唆する記述も 見られなかったことは、上述のとおりである。
(引用終わり)


調査委員会のなんたるかが問わず語りに分かる報告書であり、笑止千万な記述が堪能できる。<一方、今回調査したファイルの中からは、この「合意議事録」は発見されず、この「合意議事録」の存在を示唆する記述も見られなかったことは、上述のとおりである>。 議事録を廃棄すれば発見されないのは当たり前である(誰が廃棄したのかを調査するために調査委員会を設定したんだよね?岡田君。
<この「合意議事録」の存在を示唆する記述も見られなかった>。。。なにを寝ぼけたことを言っているのか。もっとも、調査委員会の委員長に外務省の身内である北岡伸一を任命した時点で、このような寝とぼけた報告書になることはアキラかであったが。
 雑誌『世界』2010年6月号で前田哲男は次のように述べている(要約する)。「裏返った日米安保条約」から。
外務省調査報告が示しているのは次のことである:
(1)1960年の安保条約締結時から50年間の長期にわたって密約が維持され、この間、半世紀にわたり24人の首相が国会と国民にウソを突き続けた。これは民主政治の根幹にかかわる背信行為であり、外交機密で正当化される域を超えている。
(2)政府・外務省は一貫して密約の存在を否定し続け、米政府による外交文書公開後も、日本側の文書公開を拒否してきた。衆議院外交委員会における東郷文彦元条約局長証言(3月19日)によれば一部文書は破棄された可能性がある。これは背信以上の、外務公務員と歴代国務大臣による組織的・意図的な隠ぺい工作=権力犯罪の所在をにおわせる。
(3)密約にもとづく安保運用という手法が半世紀維持され、密約のほうが安保の実態となるにいたった。日米同盟とはこの<裏安保>に乗っ取られた従属関係である。
 
米国のアジア問題専門家、Chalmers Johnson は日本を<地球最後の植民地>と呼んでいる。自国を独立国と信ずるまともで、ひ弱な外交官が(特使であろうと、密使であろうと)日本の外務省で働けば精神錯乱をおこして当然かも知れない。錯乱に陥るでもなく、セッセと自国民を売り続ける外務省職員や外交専門家・学者の存在は驚異である。
参考情報:
BS世界のドキュメンタリー 沖縄返還と密約 ~アメリカの対日外交戦略~
 BS1   5月16日(日) 午前0:00~0:50(15日深夜) 
http://cgi4.nhk.or.jp/topepg/xmldef/epg3.cgi?setup=/bs/genre/news.def 

  「核抜き、本土並み」を謳い文句に進められた沖縄返還から38年。その交渉の舞台裏で結ばれた“密約”が明るみに出た。有事の際の日本への核兵器の持ち込み。協定で定めた日本の財政負担、3億2000万ドルの不透明な使い道。こうした“密約”が生まれた交渉の舞台裏を物語る報告書を入手。そこには沖縄返還交渉に臨んだアメリカ政府の思惑や交渉の方針をめぐる生々しいやりとりが記録されている。1960年代後半、泥沼化するベトナム戦争、沖縄で爆発寸前まで高まる本土復帰運動、そして、目前に迫った70年日米安保の延長。密約はこうした時代のうねりの中で生み出されていった。また番組では返還交渉、特に今まで注目されなかった財政交渉の当事者らの証言を得た。
普天間基地の移設問題など、日米安保が再び重要な岐路にさしかかった今日、報告書と関係者の証言を元に、現在の日米関係を大きく決定づけた沖縄返還交渉を通し、冷厳な国際外交の現実を浮き彫りにする。

6/19追記:

NHKスペシャル「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」
NHK総合、2010年 6月19日(土)
放送時間 :午後9:00~午後9:55(55分)
番組HP: http://www.nhk.or.jp/special/

沖縄返還交渉で佐藤首相の密使としてアメリカと核密約を結び、後に交渉内容を公表して自殺した若泉敬(元京都産業大学教授)の知られざる生涯から、沖縄問題の原点を探る。


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sheepsong55

NHKの番組では倫理的な人物として描いていたが、自己顕示の強い人で、晩年は欝気味であったのではないか、と思いました。沖縄の記念碑前で膝をついて祈っているのを写真に取らせているなんてのは、噴飯ものです。この記念碑に捧げていた顕花にも「若泉敬」とでかでか書いてあっていやなものを感じました。今で言えば岡本行夫ですかね。
by sheepsong55 (2010-06-22 07:43) 

古井戸

>今で言えば岡本行夫ですかね。

ははは。同意。たくさんいますよ、こういうひと。北岡伸一、とか。

倫理的な人に描いていたのは寧ろ後藤乾一の著書のほうで、番組は事実を述べていたところがあります。たとえば、佐藤栄作の息子、信二によると、佐藤日記を公開前に閲覧したい、と家族に申込み、佐藤宅を訪れています。佐藤が初めて若泉と自宅で会った69年11月6日の日記には、沖縄を巡って様々な人が会いに来る、と記しているだけ。不満な表情がありあり、のようだった、と信二は語っていた。「歴史上の記録が欠落してしまったのが残念である」と若泉は語っている。<密使>の役割りをなんと心得ていたのか。しかも、自宅からのキッシンジャーとの国際電話代は公費支出を断り、自費負担した、という(ワシントン出張の渡航費、滞在費もすべて自費なのかどうか調査したらどうか)。密使であれば、その活動はすべて黒子。佐藤が密使の件を公開される可能性の高い日記に書き付けるなどということは、ありえないことだ。

噴飯ものであるのは、若泉が<結果責任を取る>と書きのこしていること。記事に書いたように公職についていないもlのがなぜ責任を取る必要があるのか。責任を取るというのなら<結果責任>ではなく、<発生責任>をとるべきでしょう(著書を書いたあと国会喚問を念頭に置いて想定問答を実施したようだが、なぜ、密使=私人を国会に呼ばなければならないのか、なにがされたいのか?弁明をしなければならぬような行為なら、最初からせねばいいのだ)。沖縄に核持ち込みを認めた密約を作った時点で責任者=首相は、国賊です。私人たる若泉はたかだか、サジェスチョンをした責任=道徳的責任をとれば十分。国民と国会に知らされない密約込みの条約に正統性などはないはず。国会は批准したことにはならない。国会は何故、遡って、佐藤の責任を追及しないのか。国会は70年ころ、非核三原則を決議しているのだから、まるでコケにされたというのに。佐藤栄作の行為は、遡って厳罰に処すべき、昔の中国、ソ連なら処刑でしょう。佐藤が国民に与えた損害にくらべれば、交渉相手ニクソンがその後、民主党本部に対して行った盗聴行為=ウォーターゲート事件など可愛いもの(これが原因で大統領を解任されたが)。

若泉が沖縄に対して申し訳ない、というのなら、オノレの持論である安保堅持、核抑止、基地提供による対等同盟化、を、どう転換したかったのか?基地を日本から無くしたかったのか?それとも本土に(どこに)移転したかったのか?(本土に移転すれば本土が沖縄化するだけ)を明らかにすべきでしょう。これは密約に若泉が係わったということを曝露せずともできる。その上で学者という身分から、政治家もしくは外務官僚に転身し、安保も、核抑止も、基地の本土移設も必要と、ニッポンを説得して回るべきであったのだ。

NHKの番組では70年ころ、核ミサイルはすべて原潜発射方式に切り替わり、基地に弾頭保管する意味は消え失せていた、ことを明らかにしている。若泉は、したがって、おれは知らなかったけど、結局、沖縄への核持ち込みは意味がない、ゆえに、あの密約は結果的に無害だよ、おれも肩の荷が降りた(=結果無責任。結果的に、非核三原則は破らなかった)。。。、とシラを切るにはあまりに自尊心がありすぎた。これが破廉恥な佐藤栄作との違いだろう。

番組を観ながらわたしは、黒澤の映画『影武者』をしきりと思いだした。民間人に密使をまかせるなら、黒澤・影武者のように流れ弾に当たって討ち死に、流れる川のモクズとなり誰にも忘れ去られ死ぬ覚悟のあるものを選ぶべきだった。政治屋でもないのに、<歴史>という映画にクレジットを要求するような人間を選んだのが間違い。



若泉が理由なく義絶した子息が画面に出て、父を語っていたのが非常に印象的だった。
by 古井戸 (2010-06-24 02:06) 

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