闘鶏の眼つぶれて飼はれけり 村上鬼城 [Art]
本日のNHK俳句王国。
主宰は金子兜太。
兜太のこの日の作句には参加者から一票も投じられなかった。兜太は多いに不満である、と述べた。今回は私の句も含めてレベルが低かった、兼題=闘鶏、が難しかったせいもあろう、と。
兜太の、この日の選評はいつになく厳しかったように見えた。ある参加者が兜太を闘鶏になぞらえた挨拶句を詠んだがこれには、「持ち上げすぎ」、と照れていた(かわいい)。おのれの句にも、他人の句にも遠慮会釈無く批評の言葉を放つ。闘鶏、これ兜太かな。
合評の最後に兜太先生がしわがれ声でつぶやいた、闘鶏の眼(まなこ)つぶれて飼われけり、キジョーはいいねぇ、と。私はなみだあふれ、すぐに検索に走った:
「春寒やぶつかり歩く盲犬」
「闘鶏の眼つぶれて飼はれけり」
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」
「生きかはり死にかはりして打つ田かな」
村上鬼城
ああ、これがキジョーか。
手持ちの筑摩文学大系69『現代句集』に『鬼城句集』をみつけた。約1200句を収録。高浜虚子が句集としては異常に長い<序>を付けている。鬼城は高崎のひと、耳をわずらっていた。あるとき、虚子に次のような手紙を書いたという。
「人生で何が辛いと言つたところで婚期を過ぎた娘を持つてゐる程苦痛なことは無い。自分は貧乏である。社会的の地位は何もない。さうして婚期を過ぎた娘を二人まで持つている。私はそれを思ふ度にぢつとしてゐられなくなる。かと言つて何うすることも出来ない。いくらもがいたところで貧乏は依然として貧乏である。聾は依然として聾である。今日も一日の労働をはたして家へ帰つて来て此二人の娘を見た時に、私の胸は張り裂けるやうであつた。私はもうぢつとしてゐられなかつた。。。」
虚子はつぎのように続ける:
同君の眼底には常に此の種の涙が湛へられている。同君は只かりそめに世を呪ひ、人を嘲るやうな、そんな軽薄な人ではない云々。
キジョーリンク:
http://www.sunfield.ne.jp/~shihou/kijyo/kijo2.htm
http://uraaozora.jpn.org/haimura.html
http://www.kijyou.jp/
http://www.haikudiary.jp/haijin/person/kijyou.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/kijou.html
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