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『日本語は亡びない』 と『日本語が亡びるとき』 [Language]

                                          水村100322_0109~01.JPG

金谷武洋『日本語は亡びない』(ちくま新書)が出版されたので中味も見ずに購入した。2008年に出版された『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、筑摩書房)を批判するために書かれた本である。しかし読んで忽ち失望した。まるで批判になっていないからである。批判といえる部分は全八章のうち第一章だけ。しかし、これは全面的に金谷の責任ではあるまい。もともと、批判に足る論点が少ないし、水村の文章もきわめて分かりにくい。金谷さんは持論である日本語論(日本語に主語はない)をこの書物で再説してお茶を濁している。

『日本語が亡びるとき』は出版されてすぐに私は購入した(初版第一刷)。しかし、あまりに著者の独りよがりの発想が多く閉口した。ほとんど投げ出した、といってもいい読み方しかできなかった。この本の帯にはこうある:

<「「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか?日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した!

豊かな近代文学を生み出したのは日本語だろうが、日本語が生み出したのは近代文学だけではない。<近代文学>を生み出すために幕末の知識人が日本語を確立したわけでもない(西洋語の輸入)。

著者の言う意味での近代日本語が生まれたのは、幕末から明治にかけてわれわれの先人が西洋語を日本語に置き換えてくれた努力が大きい。その作業は翻訳というものではない。たとえば、人権、鉄道、憲法、選挙、等日本に対応物がない概念、事物に日本語を宛てるのだから発明、といってもよい作業であった。この作業に寄与したのは西周や福沢諭吉らの武士(精確には下級武士。つまり明治維新の主役)である。かれらは西洋に渡り、啓蒙され、多くの書物を読んだ。諭吉は民間人として、西周は幕府の役人としてこの作業にあたった。西周(1829-97)をわたしはとりわけ評価したい。この時期に彼らが発明した日本語はつぎのようなものである。

鉄道、電信、電話、電報、郵便、学術、技術、芸術、文学、哲学、心理学、生理学、地理学、物理学、化学、天文学、地質学、鉱物学、植物学、動物学、演繹、帰納、口碑、散文、政府、立法、行政、思想、文化、文明、、経済、教育、社会、進歩、流行、構造、規則、科学、医学、概論、現象、批評、象徴、現象、観察、抽象、概念、定義、分類、理性、命題、合成、哲学、思考。。。

近代は経済、産業の時代であり、政治、学問の時代であり、その基礎には言葉があった。言葉を習得せねば近代国家は建設できない。幕末の知識人がそれを悟って西洋の物的知的資産を導入するための基礎作業を行った。明治期に花開く文化や言論活動はこの基礎作業がなくしては考えられない(しかも、この導入作業は江戸期だけに突発的に起こった現象ではない。日本の文字=漢字、そのものが半島を渡って導入されたのであり、さらに言えば「日本人」とは渡来人なのである)。この基本語彙は数千におよぶがその大部分は中国にも輸入され、現在でも使用されているという。中国の 小平とう しょうへい)首相が生前、日本高官に対し「中国は日本に悪いことをした。それは、漢字を輸出して民衆を苦しめていることである」と言ったそうだが、とんでもないことである。漢字がなければ西洋語の導入をかくも短い期間に行うことはできなかったろう。現代中国語の語彙の60%は明治以後日本から中国に逆輸出しているのだから中国はシッカリ、収穫を刈り取ったというべきだ。

水村美苗の「叡智を求める人」には西周や福沢のような基礎作業をした人々を数えるべきである。

水村はさらに、英語を<普遍語>と呼称している。(私は普遍語というより共通語で十分だとおもっている)。水村に言わせればラテン語や古典ギリシャ語は亡びた言語ということになるのだろうか?しかし、現在の英語のうち、とくに学術分野で多用される言葉(上記の幕末人が日本に導入した言葉)は、ラテン語、ギリシャ語を使用して西洋の先人が数千年にわたって築いた学問体系がなければあり得ない言語である。オックスフォード辞典などを引き、英語の語源を調べれば明らかなことだ。この意味でラテン語は<亡んで>はいない。日本語に翻案されたのは英語、フランス語、ドイツ語からであるにしても、その根底にある知の体系としては日本語もラテン語、ギリシャ語に直結しているとみるべきなのである。英語を<普遍語>と呼ぶのは皮相的な見方である。普遍なのは、ラテン語やギリシャ語であり、これが現代の(西洋、そして日本の)世界観の幹を構成しており、枝葉である英語や日本語に直結していると考えるべきだ(注)。西周や福沢等が(さかのぼれば解体新書の訳者達が)西洋語に対応した日本語を発明した時点で、日本語は西欧の知的体型に繰り込まれてしまったのであり、日本語の普遍語化への回路は半分以上完成していたのだ。

(注)むろん、ギリシャ、ラテンを普遍というのは西洋中心主義である。たとえば中村元博士の言う<普遍思想>のような、仏教、ヒンズー教、儒教、キリスト教、等々を文化圏を異にしながら共通な思想問題がある、とする比較思想的な考察が必要になる。 日本の幕末がなぜ、西洋思想を(苦労はあったとはいえ)受容できたか、という問題である。この問題をこそ、いま考えないとイケナイのだ。

水村はどう理解しているのかはっきりしないが、水村のいう<現地語>には上記の幕末明治に製造された言葉を含めるべきであろう。これらは中学高校生の使用する学習辞典には(広辞苑、大辞林には無論のこと)収録されており、高校生たちは、受験科目である現代国語の小論文にこの言葉をあやつって作文している。

「亡びる」とはどういう事態を指すのか?著者はつぎのように<定義らしきもの>を掲げている。長くなるが重要な箇所なので厭わず引用する。p51~52。

英語が<普遍語>になるとは、どういうことか。

 それは、英語圏をのぞいたすべての言語圏において<母語>と英語という、二つの言葉を必要とする機会が増える、すなわち、<母語>と英語という二つの言葉を使う人が増えていくことにほかならない。そのような人たちが今よりはるかに増え、また、そのような人たちが今よりはるかに重要になる状態が、百年、二百年続いたとする。そのとき、英語以外の諸々の言葉が影響を受けずに済むことはありえなあいであろう。ある民族は<自分たちの言葉>をより大切にしようとするかもしれない。だが、ある民族は、悲しくも、<自分たちの言葉>が 亡びる のを、手をこまねいて見ているだけかもしれない。

 言葉の専門家である言語学者の多くは、私のこのような恐れを、素人のたわごととして聞き流すにちがいない。私が理解するかぎりにおいて、今の言語学の主流は、音声を中心に言葉の体系を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言葉も、まったく同じ価値をもったものとして考察するということであり、<書き言葉>そのものに上下があるなどという考えは逆立ちしても入り込む予知がない。言語学者にとって言葉は劣化するのではなく変化するだけである。かれらにとって言葉が 亡びる のは、その言葉の最後の話者(より精確には最後の聞き手)が消えてしまうときでしかない。

 いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるように高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

(引用おわり)

つまり、水村がいう<亡びる>とは明治の頃(日本を席巻した?ほんとか?)にあったらしい日本近代文学が生産されなくなる状態(もちろん図書館や書店には遺産として存在する)を指しているのである。家庭でも日本語が話され(十年前、プロアメリカ政策を進めていた米国のある州において、家庭で母親が子供とスペイン語で話していて罰せられた例もある。むろん母親はスペイン語しか話せなかった)、義務教育として日本語が教えられ、放送局からは日本語が流れ、日本語新聞が読める(外国語新聞は数えるほどしかなく、外国語放送局などない)。ただし、<読むに足る文学がない>。こういう状態を<亡びる>と称しているのである。

現在世界には六千程度言語の種類があるらしい。その言語が(言語学者のいう) 亡びる 状況とはどういう状況だろうか。わたしは少し考えてみたが、3種類のパターンしか想定できなかった。

パターン1 絶海の孤島に住民が300人程度住んでいる。使用言語は他のどの国とも異なる。あるとき、治療困難な流行病にかかり住民が全滅してしまった。あるいは住民が世界各国に分散移民することにより言葉を捨ててしまった。(ガラパゴス型)

パターン2 国語を有しているある国と他国が戦争をして敗れた。あるいは侵略された。戦勝国あるいは侵略者が、そのくにの国語を使用禁止として戦勝国、侵略国の言語を強制的に押し付けた。インドにおいて英国が押し付けた英語や、朝鮮、台湾において日本が押し付けた日本語のような状況。もとからあった言語はすくなくとも表面的には壊滅する。(植民地型)

パターン3 複数の言語が同時に存在する国家で、ある一つの言語しか実質的に公用語とせず、他の言語は放置した結果、自然消滅する。あるいは、多言語国家であるカナダやスイスが、住民の総意により公用言語を一種類に絞る(学校では教えない)、と決定した場合。(シンガポール型)

第3のパターンの代表例であるシンガポールに、わたしは15年前、何度か出張し現地のひとびとと共に仕事をしたことがある。国民(市民)の8割が中国系、残りをマレー系、インド系が占める多民族国家であり、言語もそれぞれの母語を話している上に、英語を話さないと暮らしていけない国であった。もともとバイリンガルがほとんどを占めていた。われわれ外国人と話すとき(ビジネス)は英語であるが、私たちがいないところでは(シンガポール人同志)、猛烈な速度の広東語が飛び交う。香港でも同じことを経験した。そのころ、マレー語、中国語も一応、英語と並んで公用語に指定されていたが学校で教えられる時間もどんどん削減され、実質的にこどもたちは英語しか話せなくなってきている、という問題があった。家に戻っても子どもたちは、中国語しか話せないお爺ちゃんお婆ちゃんと意思疎通ができない、という問題がある、と現地の同僚が話していた。当時は中国語新聞も数紙みかけたが、やがて消えていったろう。それでも、シンガポール国家は住民の意思として英語の実質単独公用語化を支持したのだ。

インターネットで英語が飛び交っているというのに、日本人はいつまでたっても英語がしゃべれない、使えない、と水村は考えているらしい。私に言わせれば、しゃべる必要がない人が多いからしゃべらないだけ、使う必要がないから使わないだけ、である。それだけ日本語が優秀であるということの裏返しにしか過ぎない。将来、<内需>が激減し、国内に就職口がなくなり(遠い将来のことではなさそうである)出稼ぎするしかなければ、日本人も本気で英語を習得するだろう。もう20年も前のことだが、私の田舎(広島)の近所の若い人(マツダ勤務)がデトロイトの工場に長期出張することになった。いま、会社で英語の特訓を受けている、と言う。何をやっているの?と尋ねたら、リンカーンのゲチスバーグ演説の丸暗記だそうだ。私はこの勉強の仕方を悪いとは思わない。もっとよいのは、中学三年生の教科書を丸暗記することだが(これは、わたしの学生時代の英語教師の言っていたこと)。いずれにしろ、必要がアレバ、外国語などすぐ身に付く。そのまえに、自動車会社であれば、安全なクルマや人事管理について<日本語>でしっかり知識を身につけておくことだ。

水村のいう<亡びる>をわたしはまだ理解できていないようだ。再掲する。

いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるように高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

著者は第八章(最終章)で、日本語を亡ばせたくなければ、「近代文学を多量に読め」とくり返している。これは著者の意見だ。反対したって仕方がない。価値観の相違だから。しかし、水村の私淑しているらしい<知の巨人>加藤周一ならこんな馬鹿なことは言うまい。加藤は『文学史序説』で、文学概念を、科学宗教を含めた人間活動の内の言語表現すべてを対象としてとりあげ、日本人の知の歴史(とくに海外からの影響と、その受容の仕方)をおさらいしている。加藤は、「富士山が日本一美しい、というのなら了解しよう。富士山は世界一美しいというからおかしなことになる」とも言う。水村は、明治期日本の近代文学は世界史的に見ても希有の現象、日本のホコリ、という。わたしも、漱石や鴎外がエライ、とはおもうし、漱石の『文学論』『文学評論』は愛読書、といってもいいほどだ。しかし、漱石の文学が日本一だともまして世界に誇れるとはサラサラおもっていない。極端にいえば、明治期の近代文学が消えてしまっても現代の日本がどうこうなるというものでない、と思っている。しかし、前述した、明治維新前後の先人の基礎作業(語彙作り)にはこれからも敬意を表し続けるだろう。わたしは馬場辰猪のファンであるが、彼は反政府活動で国外脱出し、英国ロンドンで、日本語文法書を(英文で)著した。当時、日本にはまだ『国語』がなかったから、この際、英語を輸入して国語にしてしまえ!という意見に対し、それをやればインドのように上流階級(知識階級、すなわち武士)だけが英語を話し、下層階級(町人の大部分、農民)は日本語=和語、しか話さなくなる、と主張しこれに大反対した。インドの実態を知っていたわけだ。こういう先見の明がある人間にもわたしは敬意を払う。

060423_1541~01馬場辰猪.JPG 馬場辰猪

わたしは、別のブログ記事で3年前に『小学生からの英語教育』に反対した。わたしは、日本語を身につけることは英語教育の基礎にもなるのだ、と言ったはずである。上記の説明はこの補論になっているはずである。日本語(現地語あるいは国語)を習得することは、いわゆる<英語>(水村に言わせれば普遍語)のかなりの部分を習得することなのである。日本語と英語は別物ではないのだ。

ついでにいっておけば、公用語に英語を追加してもそれほど問題ではない、とおもっている。この意味は、小学校で英語を教えろということではない。シンガポール方式を採用しろということであり、義務教育としては(中学で)英語をほどほどに教える、ということだ。(つまり現状の日本は英語を公用語として採用している、といえる)。さらに、極言すれば、『国語』として英語を採用してもかまわない、とおもう。問題はそのための経済的な損失、国民生活の大混乱が生じる、という実生活の被害が大きくなる、ということ。シンガポールの場合は建国してから年数も浅い。英語に絞ることによる現実的な損失はほとんどない。原理の問題と、現実の問題はわけて考えるべきである。

英語は、米英でしゃべっている言葉、ではなく、国際英語である(英語と国際英語は質が異なる。土着英米語は国際英語ではない)。経済におけるドルやポンドのアナロジーとして英語を論じるのは正しくない。かりに英米が、英語を捨てても、英米以外が英語を国際語としてそのまま採用し続けるということである。もちろん、国際語としてエスペラントを採用するということもありえる。どれほどの国がサポートするか、という現実の問題が残るだけだ。さらに、現在の社会の言語にたいする要求条件(グローバル化、政治や経済活動、学術交流など)を満たすことができるか、ということ。

水村はおもしろいことを言っている(p10)。水村が日本に帰国したあと、米国の片田舎で作家会議に参加したときのことだ。

「。。質問の内容以前に、いったい何の木についての質問なのだかがわからない。私は木の名前などは日本語でさえほとんど知らなかった

現代日本の最先端をいく作家にしてこうである。私の田舎では小学生でも木の種類は十種類以上知っているだろう。文学者にはもっと世間を知ってもらいたいものである。

この作家会議に参加していたモンゴル人作家と次のようなやりとりをしたという。

You are a very important person

何かのときに私(水村)がそう言ったことがある。

Everybody is important

英語はきわめてたどたどしいのに、そのような反応が一瞬のうちに返ってくる人であった。

 言葉の上手い下手にかかわらず人格の上下はおのずから明らかになるものと見え、ダシュニムは人格者としてみんなから信頼されていた。

水村はなぜ、日本人が目指すのは、普遍語をペラペラしゃべりまくるひとではなく、このダシュニムさんのような英語は下手でも「叡智を備えた人」になることである、と言わないのだろうか?

ダシュニムさんと仮想問答をやってみよう。

「日本語は非常に重要な言葉である。日本の近代文学は世界の希有な現象である」

「すべての言葉が重要です。すべてのくにの、すべての時代の、文学に限らない言語活動が重要です」

水村は別の講演(日本記者クラブにおける講演。末尾にURLを記載)で次のように述べている。

 せっかく「国語」たりえた日本語を粗末にしてきたという事実と、全地球を覆う「普遍語」としての英語の台頭。その二つが絡み合ってどうなるのかというのが今の状況だと思うのです。

 このままほうっておいたらどうなるか。どんな社会でもそうですけれども、「叡智を求める人」(ほぼ、知識人のこと=古井戸、注)というのは 「普遍語」を読みたい人、すなわち「二重言語者」になる傾向をもつ人です。このまま無策でいると、「叡智を求める人」ほど、日本にいながら、頭脳流出してしまう必然性が高い。それは「叡智を求める人」が日本語を真剣に読まなくなることによって、日本語がいずれ知的、倫理的な重荷を担わない言葉になる、「国語」から「現地語」へと転落する可能性が出てきたということです。

一部の論者が水村を「憂国の士」と呼んでいるのはこういう主張を指しているのだろうか。 日本にいながら頭脳流出とはどういうことか?今、ものごとを真面目に考えれば特定の国民(の利益代表者)と考えていてはダメ、であると、「叡智を求めるひと」なら考えるはずだ。どの国家の国民であれ、国家のエゴでなく、グローバルな視点を要求されるという時代になれば、普遍語が求められるのは当然のことである。水村は普遍語(現状、英語)を <彼らの言語>、であり、<我々の言語ではない>、と自明のように考えているらしい。これは意識の上で英語が<普遍語>たり得ていないということの告白に他ならない。定義からして矛盾した命名である。では、水村は普遍語(英語に代わる)を不要と考えているのか?何も見解を明らかにしていない。杉田玄白、前野良沢らが解体新書を翻訳した時代と今を同列に考えているようであり滑稽である。<日本語がいずれ知的、倫理的な重荷を担わない言葉>になる可能性を憂えるのは杞憂だろう。これは日本語の責任ではなく国民の責任である。明治に発明された日本語という優れものがありながら、日本は今日に至るまで何度も何度も亡び続けているではないか。問題は人間であり、言語システムなど、国家や国家倫理を支えるには屁の突っ張りにもならない、と知るべきだろう。

『日本語は亡びない』で、金谷は『亡びない』とは言っているが私の見解とは主旨は異なる。持論である三上章(日本語文法学者)の説を再論しているだけである。日本語は亡びない、という根拠として、宮部みゆきと中島みゆき(二人のみゆき)の作品をもちあげている。これは反論ではなくクリンチ作戦である。おしまいに近いころになって、クローデル、ラフカディオハーン、さらには、藤原正彦『国家の品格』までもちだして、日本語ではなく、日本国を賞賛している。あきれてしまった。だから、水村のつぎのような非文学的な啖呵にも「こう言い切る水村に、私は立ち上がって拍手を送りたい」と賛意を表するのだ。

人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。

日本人(日本国籍を有する人)であって、日本語を日常的に使用しない人はいてもおかしくない。この引用のような発想をすれば、日夜、外国語を読み書きし、外国語で論文を書いている人は日本国籍をもっていても日本人とは呼べないだろう。日本列島に生まれた人間が選ぶ言葉は本来自由に選択できてよいはずである。それを認めないのは親であり、国家である。私の親は私を中国語で育てたが、わたしは赤ん坊を英語で育てる--こういうことがシンガポールでは起こっているのだ。

水村は日本語を母語とする日本人が、ポーランド語を母国語とするコンラッドが英語で小説を書いたように、第二言語として英語を習得し、英語で小説を書く人が増えることをもって、「日本語が亡びる」と言っている。(すでに、国際ビジネスの世界では英語を使うことは常識である。日本人が中国人、韓国人と話すときでも英語を使わざるを得ない状況である) つまり、村上春樹が日本語ではなく最初から英語で小説を書くようなものだ。文学者が小説を書くとき、どの言語を選択するかは彼の(彼女の)文学の本質に係わることだろう。英語で書けば沢山の人間に読まれて、金が沢山稼げるから。。という理由で普遍語を使うわけではあるまい(金もうけが文学の本質である、という作家がいてもおかしくはないが)。であれば、日本人作家が普遍語(英語)で書くことに他人が異議を差し挟むことはない。コンラッドにおまえはポーランド語で小説を書け!というのはオセッカイでしかない。小説は何語で書くべきであるか?母語を使う必然性はどこにあるか?という設問にまず、マトモの答えるべきではないか?水村はもちろん考えたことはあるまい。(リービ英雄にでも尋ねたらよかろう)ほとんどの日本人の作家が英語を習得し、英語で小説を書く。。これは慶賀すべき事態ではないか?(ファンはこの小説を読むために一所懸命英語を勉強するだろう)。もっとも、水村にいわせれば、そういう小説家は日本人ではない!ということになろう。

金谷は第九章で藤原正彦を援用している(p182)。

「 藤原正彦は『国家の品格』(2005)の最後にクローデルのこの言葉(日本人は貧しい、しかし高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ)を引用して、こう述べている。

 日本は、金銭至上主義を何とも思わない野卑な国々とは、一線を画す必要があります。国家の品格をひたすら守ることです。経済的斜陽が一世紀ほど続こうと、孤高を保つべきと思います。たかが経済なのです。

 ここ四世紀間ほど世界を支配した欧米の教義は、ようやく破綻を見せ始めました。世界は途方に暮れています。時間はかかりますが、この世界を本格的に教えるのは、日本人しかいないと私は思うのです。

 私も藤原にまったく賛成である。さらに言えば、混迷する世界を教える思想が日本語に含まれていることを、本書は明らかにしようとした。そして、それだからこそ、日本語の脱英文法化をさらに進めなければいけないのだ。」

私は金谷武洋のファンであり彼の書いた本は全部読んでいる。『日本語文法の謎を解く』『日本語に主語はいらない』『英語にも主語はなかった』など。スッカリ賞味期限の過ぎた『国家の品格』を金谷がこんなところで引用するとは思いもしなかった。 水村美苗も藤原正彦と案外近いところにいるのかも知れない。明治政府は朝鮮半島に進出し、朝鮮王国の王妃を虐殺することまでやった。韓国併合を見ずに世を去った明治人(漱石など)はまことによいときに死んだと言うべきか。日本の近代に言及したいのであれば明暗、その功罪を明らかにすべきではないのか。

金 文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?daily_id=20090618

旅順大虐殺事件 http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/thepurtarthurmassacre.html


最後に水村の文章について。明治の文人を賞揚するのであれば、主張の内容はともかく、日本語として音読したり、書き写してみたくなるような(できれば文学ではなく)評論や実務的文章のモデルとなるような現代文を量産してほしいものである。近代国家を築いた幕末や明治の先覚者はとくに個人の名誉を求めるのではなく、無償の行為として国語の構築のため汗を流したのではなかったか。<普遍語>と日本語の間に介在する優秀なバイリンガルの量産を国家に求めるより、先にやることがあるようにおもう。水村は日本の政治家の下手な英語を嗤っている。米国大学院を優秀な成績で終えた鳩山首相や秋葉市長は多少上手な英語を操れるようだが、オバマ大統領にすり寄っているだけの存在である。日本の政治家は英語を話せたしても立派な日本語で演説し、海外の政治家と日本語で会話し、それを通訳を介して普遍語(国際公用語)に直す(中国の政治家はこれを行っている)のが正しい、とわたしはおもう。

水村美苗は本書冒頭で漱石『三四郎』から、広田先生の「亡びるね」という言葉を引用している:

「然し是からは日本も段々発展するでせう」 と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、

「亡びるね」と云った。

広田先生の予言が当たったところで19世紀末の日本が、たかだか幕末維新に戻るだけである。水村美苗の杞憂が当たったところで日本や、日本語が変わるだろうか?何も変わりはしないし、変える必要もない。

水村美苗の日本記者クラブ講演。pdfファイル。これを読めば本を読まずとも彼女の主張はほぼ伝わる。
http://www.jnpc.or.jp/cgi-bin/pb/pdf.php?id=415

関連記事: 小学生からの英語教育について
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-04-01


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わど

日々、タクシーを転がしているだけの者なので、コメントはどうかと思っていましたが、ひとこと。水村美苗氏は読みたい作家ではありません。一時は新聞、ブログなどに取りあげられた本書も読んでいません。ですが書評を拝読して、ああ水村さんらしいなと感じたものです。その「らしさ」はどこだろうと考えていました。
水村氏がお得意とする言語戦略、言語生産用の装置があるんじゃないでしょうか。まず、このままでは「滅びる」と言い出します。だから私は絶望的かもしれない戦いを始めると。「滅び」そうなそれを救おうと。そこに気がつき、救援活動するのは、いまのところ私だけではないだろうか・・・と。
こうして水村氏の一種ヒロイックな、ヒステリックとすら呼べそうな、自己陶酔型の言語活動が始まるのでは。この点に、厄介な女性性の一面を感じることもできそうです。こちらとしては、ときどき工事現場から聞こえる猥雑な大音響くらいにしか受けとれない理由でもあります。この記事のレベルには、到底およびもつかない戯言になりました、申し訳ありません。
by わど (2010-03-24 15:36) 

古井戸

わどさん。
おっしゃっていることはその通りでしょう。
水村氏(氏、をつけた)は近代文学は亡んだ、といっているのであり、日本語は亡ぶわけはない、といっているのですから、水村ファンは安心した方がいい。

何百年か先、あるいは今世紀末、日本列島の母親がこどもを、英語ないし中国語その他で育てる。。。そういうことは、無いとは言えませんが。あってもどうということはない。日本語(現地語)が亡びたからと言って、なにも問題はありません。


by 古井戸 (2010-03-24 16:04) 

古井戸

水村の言う「日本語が亡びる」とは、(ほとんどの)日本人小説家が、日本語ではなく英語(普遍語)を使って小説を書く時代がくる、ということだ。これを誤解して、日本列島から日本語が消える!と考えている論者が多いようだ。水村の言い方も誇大すぎるが(作家だから仕方がないか)。
水村は、現地語=母語としての日本語は残る、と言っている。つまり母親は日本語で子供を育て、学校でも、市役所でも日本語が使われる。ただ、日本人小説家が英語を使って小説を書きはじめる。。村上春樹が英語で小説を書きはじめる(翻訳によるのではなく。フランス語や中国語、韓国語への翻訳は英語から行われる。。)。

これは想定の話だから反論はできない。金谷のように、宮部みゆきや中島みゆき=Wみゆきは、すばらしい!現代日本文学のフランス語への翻訳はこんなに多い!と、羅列しても反論にはならない。そのうち(100年後?)多くの日本人小説家は英語=普遍語で小説を書き出す可能性が高い!と水村は主張(想定)しているのだから。

逆に、わたしは、日本人小説家が英語で小説を書き出してなにがまずいの?と問いたい。コンラッド(ポーランド人)が英語で小説を書き、リービ英雄(母語は英語)が日本語で小説を書くようなものだ。必然性がアレバ小説家は母語以外の言語を選んで小説や詩を書く。それだけのこと。インターネットが普及し、英語が普遍語になった!よっしゃ!おれも英語で一発当てよう!と小説家は考えるのかもしれない。

将来、日本人が英語で小説を書きはじめることを、「日本語が亡びる」と騒ぐのは非文学的である、とは言えよう。なぜ、作家は母語で小説を書く場合が多いのか?母語を使う必然性はあるのか?(おおむかし、西洋の文人は普遍語=ラテン語で哲学小説詩歌、を書いた。文字のなかった日本人は万葉仮名を使った)。作家はどうやって小説言語を選ぶのか?を問うべきじゃないのか?

作家と、彼・彼女の選択する言語、選択する理由を問いつめればむしろ、普遍語の文学への適用は警戒、あるいは拒否され、母語を選択する蓋然性がきわめて高くなる(文学の歴史はそうなっているはずだ)、というのが私見である。普遍語=母語である作家のほうがむしろ不幸。
by 古井戸 (2010-03-30 14:11) 

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