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多事争論  追悼・筑紫哲也 [Journalism]

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昨年、ジャーナリスト筑紫哲也が癌で亡くなった。わたしは、朝日ジャーナル編集長としての筑紫は評価するがTBSニュースキャスターとしての筑紫は評価しない。言うことが生ぬるすぎる。しかしこれはキャスターに要求される職業倫理(日本における)がそうさせる、ということもある。筑紫本人の評価としては酷かも知れない。

本日近所の図書館で廃棄処分にする本を30冊くらいもらいうけてきた、そのなかに筑紫哲也『メディアと権力 多事争論』(1994530日、新潮社刊)があった。TBS系<ニュース23>で筑紫がオノレの意見を述べたテレビ・コラム欄『多事争論』を文字に起こしたものである。ざっと読んでいまでも通用する記事をピックアップして掲載し、遅ればせながら筑紫哲也を追悼する。

 

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1992105()       多事争論

-- 福沢諭吉著『文明論之概略』より

新しいコラムといいますか、テレビ・コラム欄を設けました。この欄は何でもアリです。あらゆるテーマに挑戦するコーナーです。

  まず最初に「多事争論」という言葉の意味の説明からはじめます。この言葉は一万円札の顔である福沢諭吉の代表作『文明論之概略』という本の中で出てくる考え方です。

  ひと言で言うならば、たった一つの説は、それがいかに正しくても、それが一つであるがゆえに自由な気風を生まない、いろんな人間のたくさんの意見を論じあうほうがいい、という考え方です。

  この「多事争論」が、今ほど必要な時はないんじゃないかと、金丸信問題を考えながら改めて思いました。今、永田町の巷では三木武夫の不在という事が、しばしば雑談の中に出てきます。三木武夫という政治家は、田中金脈問題で金丸さんの親分にあたる田中角栄に対して、内閣を飛び出して完全と批判をした人物です。

  そもそも今回の政治的なスキャンダルは、田中金脈からロッキード、リクルート、共和問題、そして佐川急便問題へと、どんどん質(タチ)が悪くなっておりますけれども、昔は同じ自民党の中にあっても、そういう「多事争論」と言いますか意見の相違があったのに、今やそういう違いが聞かれないという事が目立ちます。スキャンダルの中身と同時に、「多事争論」のないことが大きな問題ではないかと思います。

『文明論之概略』より抜粋

 単一の説を守れば、其の説の性質は仮令(たと)ひ純精善良なるも、之れに由て決して自由の気を生ず可からず。自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知る可し。

 

 

1993216日(火)         挙証責任

 あしたいよいよ、恐らく最後の竹下証言になりますけれども、日本は正義が行われない国という評価が外国で高まっております。その大きな理由は、政治家の責任のとり方の物差しが違うからではないでしょうか。

 挙証責任という問題を考えてみましょう。

 ふつう例えば政治家が疑惑を受けた場合には、「疑わしきは罰せず」の原則から、刑事責任を問う立場の検察側が、この人はどういう疑いがあるかを立証しなければいけません。つまり挙証責任は検察の側にあります。

 ところがもう一つの政治責任というグランドでは、疑惑に一応の根拠があった場合、その違いを晴らす責任は、政治家の方にあった場合、その違いを晴らす責任は、政治家の方にあるのではないでしょうか。この違い、刑事責任と政治責任の違いのケジメを日本の国会もはっきりさせないといけません。 (以下略)

 

1993630 (水)      上納金

 家を建てる、学校を建てる、ビルを建てる、橋を作る、道路を作る、そして堤防を作り、ダムを作り、港を作り、空港を作り、トンネルを作る、これすべて土木建築と言われている仕事の範囲です。

 私たちの身の回りを見回せば、そんな仕事がたくさんあります。そしてその仕事の中身は、大工さんや、左官さんの伝統的な技から、インテリジェント・ビルを造るところまで、日本の土木建築業の水準は、高いレベルをもっています。にもかかわらず、実際には、政治家に対するヤミ献金は上納金と業界で呼ばれ、これは暴力団の用語のレベルです。

 そして日本の政治のダーティな部分を支える、使途不明金の大部分もまた、建設業から出てきています。せっかくの大事な仕事が、どうしてこんな風に、汚辱にまみれていかなければいけないのか。これは私たちの社会を支える重要な仕事だけに、原点に立ち返って考えると、暗澹たる気分になります。

 公共土木工事がその犯人だとするなら、思い切ってこの公共土木事業をやること自体を考え直していいのかも知れないとすら、これは極論ですけれども、思います。

 もしこういうことを続けていたら、日本の土木建築業に若い人たちが行かなくなるのではないか、そうなると、私たちの社会の土木建築業の将来はどうなるのか、ぜひリーダーの人たち、経営者の人たち、考え直してほしいものです。

 

 

古井戸コメント) 八ツ場ダム、沖縄キャンプシュワプ移設工事に公共性など無くこれらは官僚・政治屋・企業への税金バラマキであることを筑紫が知っておれば、<これは極論ですけれども>とは言わぬだろう。

 

 

 

19931216日(木)    角栄史観

(前半省略)

 今日その田中角栄が亡くなり、一つの時代史が終わったという感想が強く出されているのですが、それも無理もないことであります。

 しかしながら政治家として、闇将軍としてはすでに竹下氏らの造反によって力を失っていました。一方で田中角栄氏が築いた日本型の政治は、立花隆さんや、故・児玉隆也さんが指摘しましたようにまだ終わっていないところがあります。

 そう考えてみますと、必ずしも一つの時代が終わったとは言い難い。権力の二重支配、土建国家日本という形で、例えば角栄氏が強い頃は、田中角栄氏がなんでも裏で糸を引いているという見方がありました。それを角栄史観と当時は呼んだものです。

 現在の政治状況を見ますと、田中角栄氏を父親とも仰いだ小沢一郎氏が裏で何もかも操っているのではないかという、小沢史観みたいなものがあります。そういたしますと日本の政治構造、そんなに変わっていません。一つの時代が果たして終わったと言えるかどうか、考えさせられます。

      

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中国の政治も賄賂まみれらしいが、日本も中国に劣らず賄賂まみれ。これが分かっていながら何十年も同じことがくりかえされているのは、検察・警察を含む官庁に牛耳られており、筑紫哲也もそのメンバーである、マスゴミに大きな責任がある。筑紫の力量はマスゴミを変えられるほどではなかった。民主党が政権を取った後も筑紫が生きていれば、たとえば、記者クラブ廃止を最後の大仕事としてキャスターの職を擲って、奮闘したろうか?

 

 

最後のニュース 井上陽水
http://www.youtube.com/watch?v=EMcHsKRndg0

 

 

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