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小田実 『大地と星輝く天の子』 (岩波文庫) [Book_review]

               ソクラテス像090516_1007~01ソクラテス.JPG

出版社(岩波)の案内:
小田実『大地と星輝く天の子』
http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html
ソクラテスはなぜ告発されたか.籤で選ばれた陪審員が耳を欹てる哲学者の弁明とは.性的人間,革命家,泥棒,巫女,よそ者蠢く敗戦後アテナイの姿──爽快に猥雑に展開されるダイナミックな現代絵巻の一部始終は,裁判員制度の始まる日本人にも他人事ではない.初期代表作を一人でも多く読んでほしい

http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html
評決は死刑と出た.ソクラテスの平静と巷(ちまた)に広がる波紋.クリトンら弟子たちの奔走も空しく,迎えた刑執行の日──裁判の仕掛け人は告発人は? 外国人(よそもの)は奴隷は? 娼婦は巫女は? 人が人を裁く意味をめぐって,揺れるアテナイ社会.市民それぞれの運命を大胆に描く裁判小説が,限りなくわれわれの現代に迫る.全2冊

出版社(岩波書店)挨拶
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/bun/
★  いよいよ裁判員制度の始まる五月、文庫の〈裁判小説〉も完結篇(裁判員制度も利用する出版社の商魂)。

 われらがソクラテス裁判の評決は「死刑」と出た。なぜ、死刑だったのか。二回の投票のうち一度目は無罪か有罪かを問うもので、結果は意外な僅差で有罪。そのとき無罪に投じた人たちの票は、刑罰の種類を決める二度目の投票では、当然、軽いほうの刑罰を選ぶと思われた。それが、国外追放ではなく罰金刑でもなく、告発者の一人が口にした「死刑」という言葉へと、一気に傾斜していった理由は?
 いやいや、原告および被告ソクラテスの弁論、投票の成り行きや結果への波紋は物語を読んでいただこう。本書の読み所としては、古代ギリシアでの裁判の方法、男女の風俗、外国人の役割など社会史的側面があげられる。だが一層興味深いのは、市民が何をもって「罪」と考えるか、また罪の重大さと「罰」の妥当さへの社会的判断はいかに形成されていくか、の根源的問いではなかろうか。この点で、この小説は、古代から現代へと大きく開かれる。人が裁き・裁かれる際に直面する葛藤は登場人物ごとに異なるが、「世間」「世論」という個人を越えた集合心性と、無定形なその膨張が惹起する不穏な動きを追う眼は、いかにも小田実らしい。この初期長篇は、『何でも見てやろう』で一躍有名になった若い作家が、西洋古典の異色の案内人さながら自由自在に人物を造形し、古代アテナイに敗戦後の日本人の心性まで映し出してみせただけでなく、あくまで市民に視座をすえた小田実、誰もが知る、あの、生涯行動しつづけた作家の眼力を、すでに具えていたことを立証している。
 作家として友人として小田実を長く深く知る柴田翔氏の解説のほか、付録に未公刊の小田実『私の自伝的文学論』を収めた。いささか無謀な試みだが、巻末に<旅と小説の略年譜>を付した。2ページ見開きで見る小田実の生涯――短いやないか!! と、小田さんは怒るでしょうか。(死なないと文庫化してくれへんのか!と苦笑するでしょう

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小田実の小説が岩波文庫に入るなぞ予想もしなかった。
彼の尊敬する戦後派作家、中村真一郎、堀田、大岡、安岡、武田泰ジュン、。。野間宏を除いてまだ岩波文庫(緑)になっていないのではないか?

小田実の小説を岩波文庫にするバヤイ、どの作品がいいだろうか?
『アメリカ』『HIROSHIMA』『現代史』。。
それとも、トルストイ『戦争と平和』の倍もある『ベトナムから遠く離れて』か?
http://www.odamakoto.com/jp/Profile/1990.shtml

岩波書店は『大地と星輝く天の子』を選んだ。

『大地と星輝く天の子』を収録した「小田実全仕事」第三巻「この巻のためのきわめて短い注釈」として、小田はこの作品についてチョロリ、と書いている:
「ギリシヤ語を学ぶようになって、最初に読んだ本が、プラトンつくるところの『ソクラテスの弁明』であった。なかに、おしまい近くのところだが、「わたしに死を課した諸君、諸君に私は言いたい」とソクラテスが語るところがある。それは決然とした裁断のことばだが、私は読んで慄然とした。こんなふうにソクラテスにさえ見放された人間たちはどこへ行けばよいのか。私自身が、そうした人間たちの一人ではないのか----私は、そのとき、そんなふうに考えたのである。
 その思いは長いあいだ、私の胸に重苦しく残っていて、60年の1月から2月にかけてはじめてギリシヤを放浪して歩いたときも、日本についたあともとりついて離れないで、ついに、この『大地と星輝く天の子』になった。63年の正月に書き始め、半年かかって完成した」

かくて、文庫本にして800頁の小説ができあがった。

内容は三部構成。
第一部: 鳥とネズミとカエルと矢と
第二部: 裁判
第三部: 死まで

第一部ではソクラテスとその周辺にいる俗物たち、この裁判~死刑事件がおこる直前の30年におよびペロポネソス戦争の実像、市民と奴隷達の野卑、喧噪、二日酔い、打算、裏切り、好色、怠惰、痴話喧嘩、貪欲、取引、いいかげんさ(ボチボチ)に満ちた生活が描かれる。ソクラテスの扱いは英雄的である(それ以外に描きようがない)。
第二部: 陪審として金欲しさに裁判所にやってきた市民達。ソクラテスを告訴した俗物=メレトス(イエス伝でいえば、イエスを売ったユダの役割)。ソクラテスの長い、反論。500人(小田実の小説ではなぜか501人を通している)の陪審が280対220で有罪に。刑罰を決する前、ソクラテスが示したでかい態度にがまんならず、大差で死刑判決に。(ちょうど、現在のニッポン、民主党=小沢党首が、反検察を押し出してデカイ態度をとったため、小澤が怖いマスゴミと、アホな国民の反撃を喰らったのと似ている)
第三部: 刑務所におけるソクラテスとその死。。しかし、これを匂わせるだけで、小田は直接毒杯を飲む場面を描いていない。


 バタイキスコスは今年の陪審員に登録されていたが、その日の裁判に出廷できるかどうかは籤(クジ)によった。彼は籤運に強い方で、このところつづいて3オボロスにありついているのだが、そんなふうに今日もうまく行くかどうか。神に祈れ。ノッシス。英雄バタイキスコスの出陣だ。彼がぶじに民主国アテナイ市民としての責務を果たし、3オボロスを手に入れることができるように、ノッシス、神に祈れ!

 街路にはすでにかなりの人間が歩いていた。急がなくてはならぬ。おくれてしまっては、籤を引く権利さえない。3オボロスにありつかなければ、今日一日、アゴラで働かなくてはならないだろう。まる一日働いてたったの1ドラクマ。光輝ある自由市民も奴隷も在留外人も変りはなかった。たったの1ドラクマ。額に汗して、重い石材をかつぎ、うんうんうなり、現場監督の眼をぬすんで苦心して油を売って1ドラクマ、つまり、6オボロス。そこへ行くと、裁判で稼ぐのは楽だった。ベンチに坐ってらくらくと居眠りしているうちに時間はすぐたち、3オボロスが降ってくる。急がなくてはならぬ。急がなくてはそいつが降って来ないのだ。日傭とりのテウクロスは懸命に歩いていた。ペリクレスもやって来ることだろう。もう一人の仲間のアンドキデスは今年は陪審員の名簿にのっていないので裁判があるたびに地ダンダふむのだが-----ペリクレスがおくれるといい。おくれるように神に祈ろう。あいつがおくれると、同じ仲間のすくなくとも一人ぶん3オボロスにありつくチャンスがそれだけふえる。ペリクレス、寝すごすがいい。そして、急げ、テウクロス。おまえはダテに年をとっているのではないのだぞ。

 バスクレスの足どりに元気がなかった。一歩一歩が「寝とられ男、寝とられ男」と言っているような気がした。確証はいぜんとしてなかった。マルプシアスはキュノサルゲスで会うと、「やあ元気かね、助平オジサン」と大声をあげて馬鹿笑いし、それから思わせぶりに「奥さんはお元気かね」とたたみかけて来る。バレクレスは「まあね」とか「元気よ、元気すぎて困るよ」とことばを返すのだが、口調は昔と変わらず元気いいものであるのに、どこか受身なところがあった。
 あれから、彼は何度も不意打ちに帰ってみた。異状はなかった。いつだって、クリテュルラは「あら、今日は早いのね」と何事もなかったように彼に飛びついて来た。そういうとき、バスクレスは彼女を引き倒して着物をまくり上げるのだが、「いやだわ、まだ早いわ」とクリテュルラはくっくっくっと笑声をあげ、ほどよく肉のついた両股をひろげる。 (p158.第二部。『小田実全仕事』版)



筋書きと、ソクラテスの演説はプラトンの原作通りだろう。プラトン『パイドン』は、ソクラテスが毒杯を飲み、家族や友人が泣き叫ぶのを押しとどめ、カラダが硬直し始め、床に横たわって死ぬ。友人が瞼を閉じさせてやるまでを詳細に記述する。これはこれで感動的なのだが小田の小説は視点がこの場面、ソクラテスにはなく、死に追いやって、死の瞬間にはソクラテスのことなどスッカリ忘れ、死後市民に英雄視されるのを恐れる告発者や、俗物市民の側に視点を置いている。

法廷でソクラテス=70歳、の演説を聴いたプラトンはこのとき28歳。

小田実がベ平連活動に(鶴見に依頼されて)係わりはじめたのは65年のことだ。小田は、市民が、ここぞというとき、いかに愚劣な言動に走るか、を、しっかりと認識していたはずである。徒党を組まず、個人として参加し、個人として撤退する、というベ平連の行動スタイルはアテネのいい加減なデモクラシから学んだに違いない。



保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』によれば、 ソクラテスは宗教的存在であった、という。ギリシャ哲学がそも、宗教的性格を当初はもっていた。ソクラテスが裁かれたのは民事でも刑事でもなく、宗教裁判である。

なぜ裁かれたのか?

ソクラテスを告訴したグループは、ペロポネソス戦争敗戦後の不安定な政治状況を乗り切っていくうえで、ソクラテスの存在が邪魔であった。そこでソクラテスの活動(アテネの老若男女だれかれとなく捕まえては議論をふきかける)が邪魔であった。活動を圧殺しようとした。それが裁判の真相という。

プラトンは『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』で、ソクラテスの法廷における反論、牢を訪れた友人クリトンが脱獄を薦め、ソクラテスが拒否、それに、最後の場面。。が記述される。これは真実なのか?田中美知太郎によれば、プラトンほどの創作者ならば(史実かどうかは別にして)、ソクラテスくらいの人物と事件の創作は簡単にやれたろう、という。




以下、開高健の解説(講談社文庫版、1970年)からの引用。開高健は林達夫の古代アテナイの「民主主義」に関する記述をつぎのように要約している。

 その時代の人口のほぼ半数は奴隷であって、政治的、市民的、いっさいの自由をあたえられず、切り捨て御免、芝居を見ることも許されない。だからアテナイの民主主義は人口の半数を完全に除外したもののうえにあった。のこる半数の自由民の投票有資格者二万五千人のうち、現実に人民議会の討議に「参加」したのはたいていの場合四千人そこそこ。この「市民意識」を持った人口のうちで政治に熱心だったのはアテナイ市民というよりは郊外の農民であり、市民のうちで「参加」したのは中流商人が多く、その「参加」の「心情」は半ばひまつぶしであったと推定され、「ルンペン的、冒険的人員」もたくさん野心家に買収されて投票にでかけたのではないかと推定される。そして、現実をうごかしたのは議会というよりは銀行家や経営者、およびそれと結びついていた自由民の労働者たちであり、彼らは議会を公然無視してこっそりと、しかしたくみにアテナイを支配したと推定される。「アテナイの民主主義も、結局は勢力ある比較的少数者の支配、一種の寡頭政治だったといわなけばならない。」
 奴隷の底知れない低賃金労働をかかえこむおかげで金持ちはいよいよ金持ちになり、貧乏人はいよいよ貧乏人となり、両者は手段を選ぶことなく、隣国の援助を借りてまでも流血闘争をやった。
 争闘の結果として社会は疲弊し、富者はいよいよ富み、貧者はいよいよ飢え、失業者が増え、危機が昂まる。そこで解決が戦争に求められる。土地、資源、奴隷、市場を求めての戦争が開始される。ペロポネソス戦争がじつに27年間にわたって続行される。しかし、戦争によって富者が必ずしも富むとは限らない。アテナイは崩壊する。



開高健は、。。
いかにアテナイが、「無知と俗悪との無政府状態」であったとしても無知者は無知者、俗悪者は俗悪者なりに一つの生を生きようとし、生きていたのだということを実証するため作者はクロかシロかと断定したがる安易を峻烈にこばみ、その結果として作品をこんなにも膨張させてしまったのである。生きることの手のつけようのないむつかしさを実証するためにいささか書くことに不手ぎわだったのではないかと思われるのである。誠実が過度すぎたのである、
。。という。そして結論として、つぎのことばで「解説」を締めくくる:
 「作者は何を言いたかったのか?
  私は一つ深い絶望を嗅ぐのだが」


絶望か?
この小説を書くことにより脱出口をみつけたか?
しばらく、保留。再読しよう。


追記:5/17
書店で文庫本(下巻)を読んだ。柴田翔が解説を書いている。それに小田実の小説作法に関するエッセイの寄せ集め(20頁くらい?)がオマケについていた。柴田翔が書いているが、40年前、雑誌『人間として』の編集会議(小田、柴田、開高、高橋、真継)の席のこと。小田は一枚の紙にしゃべりたい項目を乱雑に並べて、その個々の項目をネットワーク上に鉛筆で結びつけている、そしてこの紙をわきにおいてオモムロニ熱を込めてしゃべり、チャンとシャベリ終わったときは筋の通ったハナシとして展開し終えていた、という。巨大な小説をいくつも書いた頭脳の一端である。<小説作法>というより、この構想力は努力して得られるものではあるまい。なにが小田を作家にしたか。根源が知りたい。小田が何度も語っている、人間の命を虫けらのようにあつかったコッカ、そのコッカを操っているのも同じ人間、この人間という存在とはなにものであるか。これを明らかにせずに死ねるか、という終戦時、焼け野原の故郷(大阪)に立った小田の怒りが根底にあるのではないか。。。などと思っている。



小田実の考えてきたこと
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-03-27
追悼小田実
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-07-30

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ふみん

以前に書き込みさせて頂いたことのある者です。
小田さんの作品が岩波文庫に収録されるとは、感慨深いものがありますね。今手元にある「岩波文庫解説目録」を見てみたのですが、現存する作家はいないようです。岩波文庫はそういう選択をしてるのかもしれませんが(でも野間宏や木下順二は生前から入っていた気もしますが。)、小田さんが生きていたらきっと喜ばれたと思います。
「大地と星輝く天の子」は20年近く前、大阪中之島図書館で「全仕事3」を借りて読みました。この機会に再読しようと思います。
他に岩波文庫に収録してほしいのは何でしょうね。色々あって迷いますが、今の私が3つ選ぶとしたら、「明後日の手記」「現代史」、そして未完ですが「河」でしょうか。(「ベトナムから遠く離れて」も大長編で小田さんの思い入れも強いでしょうが、恥ずかしながら読み切っていません。)
初期、中期、晩期の作品を読むと、作家としての小田さんが良く見える気がします。
by ふみん (2009-05-22 21:02) 

古井戸

文庫がこんなに高くなると文庫化する価値はありません。『大地と星。。』なんかたった800頁なのに上下に分けて不便きわまりない(値段つり上げの策略か、勘ぐってしまう)。
『小田実全仕事』は上下二段組みで読みやすいですね。
『現代史』は文庫化すると全4巻くらいになるんじゃないでしょうか。

小田実全集。。。どうするんでしょうか?(赤字、になるとおもいます)。
by 古井戸 (2009-05-22 22:38) 

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