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崋山と長英   鶴見俊輔と加藤周一の方法 [history]

          090328_1106~01崋山馬鈴薯.JPG「馬鈴薯略図」崋山


先日から、佐久間象山、高野長英、渡辺崋山を読んでいる。
岩波の日本思想大系第55巻(崋山、長英、象山、横井小楠、左内が一巻にギュウズメにされている)は押入の奥の段ボールに入っており引っ張り出すのが大変。もう一冊、アマゾンで買おうか。。と思案中。

長年(30年来)読みたかった杉浦明平『小説渡辺崋山』上下、を古書店に注文。朝日ジャーナルに連載されていたヤツである。

杉浦明平さん
http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/06zatu.sugiura.html

長英では、岩波新書『高野長英』佐藤昌介著、や吉村昭の小説『長英逃亡』新潮文庫、を読んだが、このたび、鶴見俊輔『高野長英』(朝日評伝選)を古書店で買ってただいま読書中。評伝の見本ともいうべき圧倒的なできばえである。図版多し。長英の出身地、奥州・水沢の歴史から解き始める。奥州は切支丹が多い。ペドロ・カスイ岐部の出身地がローマから帰国してからの活動拠点が水沢であった。思想家がいかにして仕上がるか、の鶴見的見解。 長英と関わりの深かった崋山にも多くの記述を当てている。

鶴見俊輔『高野長英』p196から。

「崋山には、のちに明治に入って小学校の国定教科書にとじこめられてしまったような、封建社会の道徳にエゴの要求をしたがわせる一面があり、長英には封建社会の道徳におしつぶされない弾力的なエゴがある。崋山と長英とを二人並べてみると、崋山は封建時代の精神をになう最後の人びとの一人、長英は時代をぬけでて近代の精神をになう最初の人びとの一人であると感じる。私は近代の精神が封建時代の精神にあらゆる面ですぐれていると思うものではないが、両者にたいする倫理的評価と別に、彼らの生き方にそういうちがいがあると思う。そのちがいは崋山の自殺、長英の脱獄という行動の対象によって、表現されている。」


加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫、下巻)から抜粋する。
p172
「。。。崋山は当代一流の画家であった。。。。文人画系統の山水や静物も描いたが、殊に写実的な風俗写生画と肖像に優れる。(略)先行する「北斎漫画」の影響があるが、文人画風の強い描線は北斎のそれとはちがう。肖像画には陰影を施し、オランダ銅版画の影響があきらかである。しかし根本的な特徴は、西洋画の技術的な影響よりも、微妙に写実的な一流の接近法そのものにあるだろう。」

(略)

<崋山の画論について>p173

。。単なる写生ではなく、単なる画家の気分の表現でもない。写生を通して自己を表現しなければならない、というのである。けだし同時代の画論で、かくも簡潔に、明瞭に、問題の核心をつくものは少ない。そういう芸術の話として、その結果が金もうけになるかならぬかは、ほとんど問題になりえないだろう。しかも彼の画論の行文は、またただちに彼の学問論を思わせる。 (略) 崋山の画業の写実主義は、日本の画壇への激しい批判なしにはあり得なかったろうし、彼の蘭学への傾斜は、儒林の痛烈無慈悲な評価無しにはあり得なかったろう。

(略)

「彼の権威に対する批判的態度の一貫性はあきらかであり、そのことはまた、そういう態度と極端な貧苦の経験との関係をも示唆する。たしかに貧苦は絵画の修業をはじめた動機であったろうし、海防掛の任務は西洋事情を調査した直接の理由であったろう。しかし彼が独特の写実的絵画を描いたのは、伝統的絵画への批判が鋭かったからであり、蘭学にあれほど熱情を注いだのは、伝統的儒学への批判がきびしかったからであろう。伝統的芸術や学問の批判は、おそらく一般には権威の尊重よりも事実の直視を重んじる態度を前提として、はじめて可能であった。その態度は、沿岸の外国船ばかりでなく、彼みずからが経験した貧苦の事実と、分かち難くむすびついていなかったはずはあるまい。崋山は蘭学者になったから幕政を批判したのではなく、幕政を批判していたから蘭学者になったのである」


ドナルドキーン『渡辺崋山』(新潮社)
刊行記念インタビュー
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/331707.html
引用する:
オランダから輸入された書物の複製写真版などで崋山が目にした可能性のある西洋絵画の中にも、一斎像に直接影響を与えたと思える肖像画を見つけることは出来ない。崋山は独力で彼自身の写実を創出したのだと考えるべきでしょう。渡辺家の苦しい家計を支えるため、時には小藩田原の財政のためにも、崋山は注文主の趣味に応じた売り絵を描かなければなりませんでした。しかし、一斎を描くことで大きな自信を得た肖像画だけは、たとえそれが注文による売り絵である場合にも、崋山自身のため、己れの写実への情熱を存分に発揮するために描いたのではなかったか。
(略)
 蟄居中の身でありながら自作の絵の頒布会を開いた不謹慎の迷惑が藩主に及ぶことを恐れて、と書き遺し、崋山が自裁したのは維新の二十七年前でした。息子が武士の作法に則って死んだことを自ら確認した母は、哀しげな顔に笑みを泛べて、それでこそ我が子、と言ったと伝えられています。蟄居中の崋山が描いた、老母の肖像画があります。武士の妻として武士の母として、幾多の苦難を耐え忍んで来た一人の老婦人が、毅然と端坐しています。

ドナルドキーンは本書の末尾で述べる:
 「。。崋山が将来の世代を惹きつけるとしたら、それは何よりも一個の人間 - 貧窮と迫害に屈することなく画業に邁進し、忘れ難い肖像画の傑作群を残した人物としてではないだろうか。」

090401_0856~01.JPG 鷹見泉石像 崋山  090401_0855~02.JPG 竹中元真像 崋山

090401_0855~01.JPG 渡邊崋山像 椿椿山
いずれも、ドナルドキーン『渡辺崋山』口絵から。





蘭学ができた長英、年代差のゆえ蘭学を学ぶことができず長英の翻訳に頼った崋山。奥州水沢の出身ながら故郷を棄てたも同然、牢破りをヤッテ以後も全国を逃亡し続けた長英。崋山の貧困は筆舌に尽くしがたいほどであった。生活物資はほとんど質に出し、家で布団など見たことがない、という。

昔読んだ石川淳『渡辺崋山』。すっかり忘れたが文章の力でスイスイ気持ちよく読むことができた記憶、海外への旅の機中で。


高野長英
wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1

長英記念館
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/
長英の人生
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/jinsei/index.html
1804年、仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男として生まれる。
9才で父を亡くし母親美也の実家にもどり、叔父高野玄斎の養子となる。
養父も祖父も医者である高野家での生活が、少年長英に蘭方医学への興味をいだかせた。


(幕末・維新の町を行く「岩手県水沢市」-高野長英と角筆漢詩-)http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/mizusawa.htm

高野長英旧宅
http://www.iwatabi.net/morioka/ousyuu/takanokyuu.html


長英の蘭学は徹底していた。学習仲間同士では、日常会話もオランダ語で、という決まり。喧嘩して階段から突き落とされたとき、痛てぇ!というのをオランダ語で言った、という。

宇和島に潜伏していた期間が比較的長かったが、一晩として酒とオナゴを欠かしたことがない、という。
逃亡するにも翻訳した書物を運ぶため下人を雇わねばならぬから大変であった。

小説・長英逃亡by吉村昭 
http://yottyann.at.webry.info/200608/article_15.html

吉村昭はこれを執筆中のあるとき、通りを歩いていて、お巡りを見掛けると、おもわず、物陰に身を隠した、とエッセイに書いていた。脱獄後、逃亡中の長英になりきっていたのである。

江戸の隠れ家を幕吏に急襲され、捕縛される直前、自刃して果てた。一八五〇年十月三十日。




渡辺崋山 田原藩。渥美半島。作家杉浦明平も渥美出身である。

wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1


崋山博物館
http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/index.html

肖像画家 渡辺崋山
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2007/09/post_f857.html

崋山『馬鈴薯略図』
http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/soseiki/images/takano02.jpg


崋山の『馬鈴薯略図』は、長英の『二物考』(1836)への挿絵として描かれた。『二物考』とは、鶴見俊輔『高野長英』によれば。。

p184
気候不順でもよく実る早そば、じゃがいもの二種をつくって、米麦にたよらずに代用食をとってきりぬける道をすすめたもので、その植物の性質、栽培法、調理法についてはオランダの書物をひいて、こまかく説明している。 (略) さしえは、渡辺崋山であり、日本の美術史に残るこの画家(渡辺崋山)が、実用パンフレットに図解をかくなどということは、今日の日本の常識としてはあり得ないが、この点で日本の文化に進歩向上があったといえるだろうか。

高野長英の文章はどのようなものであったか?p187

 高野長英の散文は、少年のころの手紙においてさえ、事実のぎっしりつまったもので、それを今日の会話体にもどせば、誰がこう言って自分はこう言ったという脚本のように読めるような性格をそなえていた。序文などは、漠然とした情緒を表現することがむしろ自然であるのに、事実と論理でひたおしにしており、今彼をとりまく日本の必要にこたえるために彼のもっている全知識を駆使するというふうである。 本文に入ると、情緒漠然たる漢字成句はすっかり影をひそめ、やさしい言葉で、必要な事実のみをつたえる。


090328_1636~01長英文章.JPG 『二物考』

 このように、漢字のとなりに日常語をかなでふって、誰が手にとっても、肝心のことはわかるようになっている。形の美しさにこだわらず、達意を目的とする実務家の文章である。とにかく、急場の用にたてばよいとした、その故にかえって古典としての味わいを保っている。 
(略)
 こういう文章は、普通には日本文学史にとりあげられることはないが、虚心に人間の文章史として日本人の書いてきたものをふりかえるとすれば、『二物考』は日本人の書いた大文章の一つと言えるのではないか。


天保の飢饉にさいして長英は上州の村医との協力によってふたつの小冊子を書いた。このうち『避疫要法』は、あとがきに飢饉にさいして疫死者が餓死者に十倍するのを長英が憂えて書いたとある。内容は、疫病の発生時、医者でなくても誰でもがすぐに応用できる措置をしたためたものである。病人の腹中の汚物の吐かせかた、疫病の人を訪問するにはどうするか、死後、すぐ埋葬して部屋を掃除し、窓から空気を入れるように、などの指示。医者を呼ばなくても対処できる、と教えているのだ。なお、第一章で、鶴見は、江戸時代が日本の歴史をつうじて、とくに寒冷の時期であったことを、とりわけ奥州地方を何度も襲った寒波による冷害データをもとに明らかにしている。


p189
これらの小冊子を書くことは、長英にとって、幼年期以来心にかかっていた心配に答えることであり、自分が努力してたくわえてきた知識をいかすことであって、自分本来の仕事として考えられたであろう。もう一つの系列に属する小冊子『夢物語』が原因となって獄につながれた時、自分の本来の道からはずれたことをくやむ気持ちが長英になかったとは言えない。獄中手記『わすれがたみ』に「然れども、わが夢物語に死する、遺憾なきに非ず」と書いたのは、もとより蘭学社中への弾圧を不当としたのであろうけれども、同時に、自分がもっとも効果的に社会につかえることのできた道すじをはなれて、直接に政治を論ずる文章を草したことへの後悔もくわわっていたであろう。長英の政治的著作を全体として見る時、『夢物語』は、当時もその後ももっとも長英の名をたかくした作ではあるけれども、『二物考』『避疫要法』の二つの小冊子のほうが、重要なものではないだろうか。


加藤『文学史序説』では、長英の『わすれがたみ』と『蛮社遭厄小記』にしか触れない。p177

前者は著者の個人的経験にふれるところが多く、鋭い観察を含んでいて、文学的散文の傑作である。そこには「蛮社の獄」が「蘭学を滅却せん為に」官によって「デッチ上げ」られた事件を口実として行われたことの、指摘がある。裏切りまたは「スパイ」の事もあり、一般に政府の態度として、「総じて蘭学に関係する事は、其罪軽くして其の罰重し」という事も書かれている。もしその文中の「蘭学」を「社会主義」に置きかえれば、『わすれがたみ』は明治天皇制官僚国家の話としても、ほとんどそのまま通用する。


鶴見『高野長英』は75年の刊行、加藤周一の『序説』のこの部分が朝日ジャーナルに連載されたのは78年、ほぼ同時期である。長英の文章に対する二人の評価の差は歴然としており、ふたりが世界を観察するときの視角の差、座標の差を表す。


鶴見と加藤の評論を特徴づけるのは比較文学的、比較社会学的方法である。その座標の一端にはつねに彼らの生きる現代の日本があった。座標軸はいかようにも設定できる、それをやっているのはオノレであるという自覚(自己のポジショニング=批評の前提)があり、方法の吟味と基礎付け(Kritik)があった。崋山、長英、象山(と、その弟子松蔭)がそうであったように、このふたりこそは真のナショナリストなのであり、跋扈する似非ナショナリストと異なり地球化時代の現代においてナショナリストはヒューマニストであるより以外に存在しえない、ということである。ニッポンと東洋における地球化時代の幕開けであり時代の<転換期>であった幕末にいきた崋山や長英、象山はとりわけ現代(とくに戦後)との比較無しに彼らを評価することはできない、と両者は認識していたはずである。明治に先立って東漸する欧米の文物、軍隊に対抗させて自己の方法(言語と文化の翻訳、を含む)と、ニッポンという国(国防をふくむ)を如何にして確立するかが彼らの当面の問題であったが、これは現在のニッポンにおいてもそのまま、課題として存在する。これは雑種文化論の範疇である。

加藤に倣って言えば、加藤と鶴見はチシキ人(critic)になったからニッポンを批判したのではなく、ニッポンを批判していたからチシキジンになったのである。


加藤周一 1968年を語る   “言葉と戦車”ふたたび
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-15
追悼 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14
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高塚タツ

最初の方しか、まだ読んでないのですが、ペドロ・カスイ岐部は、国東半島の出身ではなかったのですか? 去年の夏、周防灘フェリーで大分県に行って、ペドロ・カスイ岐部のことを初めて知ったのです。
by 高塚タツ (2009-03-30 14:47) 

古井戸

岐部が帰国してからの、活動拠点が水沢でした。

出身地はどこか知りません。

追記しておきます。ども!
by 古井戸 (2009-03-30 15:56) 

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