SSブログ

鶴見俊輔 『悼詞』 と 高橋和巳 [Art]

                                    090109_1723~01鶴見追悼文.JPG

リクエストした鶴見俊輔『悼詞』を図書館が買ってくれたので受け取りにいった。鶴見俊輔が半世紀にわたって書いた追悼文を集めた本である。編集グループSUREから発行されている。http://www.groupsure.net/


鶴見は難解な文章を憎んでいるのではないか、とおもわれるほどの分かり易い文章を書く人である。

受け取ってすぐ、はらりとひらくと、高橋和巳への追悼文。図書館ロビーの真ん中でつったったまま、読み始め、しばらく動けなかった。

『わが解体』は京大闘争に係わった高橋(当時、京大助教授)の記録である。教授会と学生の狭間で、自己の行動の論理をどう構築するのか。これを書くとき、鶴見は自身の教官辞職問題(東京工大)が脳裏を去来したに違いない。


高橋和巳は学生時代に愛読し、東京に就職してから作品集全10巻を揃えた。大学時代は闘争期間中、講演に来てくれたが、鬱々とした語りで何をしゃべっているのか皆目聞こえなかった。

70年前後、河出書房の雑誌<文藝>だったとおもうが、高橋和巳追悼の文章を発見し愕然とした。これは新幹線の中であったのを覚えている。

買った高橋和巳作品集はいずれも行方不明になった。先日思い立って作品集別巻『詩人の運命』を注文した。高橋の愛した晩唐の詩人李商隠の評伝である。

高橋和巳の父が亡くなったとき、学生であった高橋は師である吉川幸次郎にそのことを知らせに師の研究室を訪れた。高橋の言葉を聞くや、平生、山のように沈着な吉川教授が飛び退くように椅子から立ちあがり、高橋に悔やみの言葉を伝えた。多くの学生がそうであったように当時の高橋も虚無感に浸されており父親の死も平然と受けとめていた。が、師・吉川から慈愛に満ちた哀悼の言葉を聞いた後の帰り道、はじめて滂沱の涙があふれてきた、という。これは高橋が吉川幸次郎を論じた一文に書いていたことである。

吉川幸次郎がその師である狩野直喜君山(支那学京都学派の祖。漢学者)を哀悼する文章も忘れがたい。狩野直喜とはどのような人物であったか。狩野は中国語はもとより、フランス語にも堪能、フランスの文物を愛した。ナチス軍の侵攻により、巴里が陥落したとのニュースを聞くや、狩野君山は礼服に身を整えて仏領事館を訪れ弔意を表した。領事館員は驚き、いたく感激したという。国亡ブレバ則チ弔ス、との中国故事にならったのである。吉川教授が師の追悼文に記すところである。

狩野君山は桑原武夫の師でもあり、桑原の父、桑原隲蔵の同僚、友人でもあった。先生の自宅を訪れたときのことを桑原武夫が書いている。君山先生でもたまに康煕字典を引くことがあった。君山が両の手でぶ厚い字典をマサカリで割るように二つに割ると目的の字はそのページでなくても必ず前後数頁に収まっていたと。

桑原武夫が療養中の高橋和巳を見舞ったことを記した文章がある。若い友人をおもう心情を論語の一節に託している。桑原武夫『論語』、雍也第六(ちくま文庫p139~):

伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。

伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、之れを問う。牖(まど)より其の手を執る。曰わく、之を亡ぼせり。命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾い有るや。斯の人にして斯の疾い有るや。

弟子の病を見舞った孔子。桑原武夫は「。。。古注によって、病人がおそらくくずれた顔を見せたくないというその気持ちを察して、孔子は窓から手を握るだけで別れたとよむのが自然であろう」と解釈する。<疾>とは、悪疾=らい病(レプラ)のことである。

「私事にわたるが、高橋和巳がガンにおかされ、命旦夕にせまったとき、私は病室に彼を見舞ったが、この章を想起せずにはいられなかった。彼は長患いになりそうだとは自覚していたが、ガンであることは知らされていなかった。枕頭におかれた魚釣りと高山植物の小型本を見て、私は気ながの養生をすすめるだけで退室した。孔子の立場に自分をおく不遜は別として、状況はすっかり違うけれども、心情は同じであった。そして彼の告別式に私はこの孔子の言葉を捧げたのだった。私にとってはもっとも感銘の深い章である。」





さて、『悼詞』にもどる。

読んだあとで気づいたが、この本、『悼詞』のスタイルは、鶴見の膨大な書評、とスタイルが同じ。鶴見にとって、人間とは肉体にアラズ、精神である、すなわち、文字である、すなわち、書物である、書とは人である。追悼の詞が書評とスタイルが同じになるのは、当然なのである。 この論集はしたがって、追悼文集ではなく、<問題集>として読める。追悼文を捧げられた人々はすでにいない、従ってこの文章は残された人々に対して書かれたものにちがいない。没した人の意味を文章という形として、残された人々の、前に(Pro-)、投ぜられた(-Blem)もの、問題集である。集中、わたしにとっては、「高橋和巳 - 『わが解体』について」がもっとも重要である。高橋の提起した、直接民主主義の問題、「内ゲバの論理はこえられるか」は時代を超えた、未解決の問題としていまだにアクチュアルである。



あとがき、で鶴見俊輔は次のように述べている。

「私のいるところは陸地であるとしても波打ち際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。

 私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。

 今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。

 しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと、そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる」 2008年8月19日 鶴見俊輔


これは、あとがきの全文である。 哲人、マルクス・アウレリウスの声を聴くようではないか。
まことに尊敬すべき文人である。


鶴見俊輔から私はおおくをおそわった。プラグマティズムや記号論、とくに、デューイ。そしてなにより、鶴見自身の生き方、考え方、世界といかに相渉るか、を。鶴見俊輔著作集全五巻(筑摩書房、旧版)はわたしの宝である。

鶴見俊輔の健康を祈る。長生きをしてもらいたい。



関連記事
追悼 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14
追悼小田実
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-07-30
崋山と長英 鶴見と加藤の方法
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2009-03-28

nice!(2)  コメント(9)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 9

そりゃないよ獣医さん

高橋和巳は長い間読んでいない。私の青春のもやもやをぬぐい去ってくれる本を、何冊も読んだ。彼の弔辞は埴谷雄高がよんだ。
埴谷が亡くなる直前に、NHKで5回ほどの特集をやった。これは何度も見た。彼の私生活と死霊の世界の映像化を試みるユニークさもあって、死霊の再読を試みた。が、とん挫して久しい。それでも彼を理解したいとははっきり思っている。
ところがあれほどのめり込ん、高橋和巳はどういうわけか、食指が動かない。この理由が判然としない。

先日吉本隆明の講演を2時間近く、NHKで放映していたが、失望した。彼の整然とした論理は、思い込みのように思えたからだ。80を超えた彼の肉体に失望したのではなく、同じことを繰り返し論じているのかもしれないが、切れ味がなく雑然としていたからである。

御同輩、時々寄りますのでよろしく。
by そりゃないよ獣医さん (2009-01-13 10:37) 

古井戸

吉本の講演にはガックリしたがこれは、糸井の方が悪い。NHKもだ。放映するに値しない講演、というものは誰にもある。しかしこのことをもって、吉本がくだらない、ということは断じてない。吉本『吉本隆明の声と言葉』(糸井編)を聴いたが同様の印象を受けた。吉本は講演が下手なのである。糸井は何か勘違いをしている。

高橋和巳作品集を全巻買ったが、この作品集で感心するのは、解説を書いた各論者がまことに友情溢れる対応をみせていることだ。吉本、竹内好、埴谷、など。とくに、竹内は、高橋和巳の作品の文章を引用し、言葉の選択の鋭さが足りない、冗長である、と的確に指摘し、同系の先輩である埴谷の域に達するには一層の研鑽が望まれる、と激励をしている。これは感動した。いかに若い友人にたいしてであろうと、著作集の解説で文章についてお説教をする人間はめったにいない。真率、とはなんたるかを示している。竹内好は偉い。

吉本隆明で、いま、読むに足るのは、言語美、と、心的現象論(序説)であろうとおもいます。講演など聴くは、時間の無駄。
by 古井戸 (2009-01-13 13:43) 

モモンガ

コメント&TBありがとうございます。

 先日の吉本隆明さんの講演はちょっと残念でしたね。
 でも、古井戸さんのおっしゃるとおり、吉本さんがダメと思うより、
 改めて・・・といってもこれまであまり読んでいないので、吉本さんの作品まとまって読んでみたいと思いました。
 
 高橋和巳さんは、私も大好きです。学生の頃、古本屋さんめぐりをして買い求めた作品集は、いまも残っています。
by モモンガ (2009-01-14 20:42) 

古井戸

講演集を吉本隆明は沢山著作集その他に入れているがあれは、あとから、かなり手を入れたのでしょうね。
いいたいことを箇条書きにすれば一頁ですむところ、だらだら何頁にも引き延ばしている感じ。

鶴見、吉本、加藤、小田。。生々死々。
by 古井戸 (2009-01-14 22:58) 

gatayan

はじめまして。gatayanと申します。

伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。

確かこの一文は、高橋和己自身も引用し、そのシーンを想像していたように覚えています。
何度も何度も読み返していたはずの文章なのに、どうしても何処に収められてあったかを思い出せません。歯がゆい限りです。

 
by gatayan (2009-01-20 20:07) 

古井戸

http://www.geocities.jp/cato1963/asahi070519.html#03
↑によれば、高橋和巳全集第12巻に収録されているようです。12巻は、孤立無援の思想、などの評論を収録しています。

「論語-私の古典」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2042422.html

by 古井戸 (2009-01-21 13:58) 

gatayan

有り難うございました。さっそく確認させて頂きました。
四十目にしていたはずなのに、忘れてしまうなんて、なんとも情けない話です。
by gatayan (2009-01-21 15:57) 

山﨑 多代里

昨晩4.12NHK教育テレビにかじりつき、鶴見さんの番組を拝見いたしました。すばらしい迫力のある言葉に、久しぶりに全身が生き生きしてきました。テレビの番組も近頃は、つまらないものばかりで。始めからあまり感心が無かったのかもしれませんが。ラジオを聴く方が多いかもしれません。
とにかく、5月3日に向かって一分張りします。
by 山﨑 多代里 (2009-04-13 13:09) 

古井戸

EHカーは歴史とは過去との対話である、と言いましたが、鶴見さんも常に過去と対話していますね。出会った人びとと。

眼と、言葉に力があったので安心しました。

この歳になって、『思想の科学』全巻をレビューして出版した、という作業もすごい。励みになりました。

by 古井戸 (2009-04-14 00:23) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。