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音の根拠 Dream Vision    [Art]

                 ジャケット改訂081011_2328~01001.JPG          <二人のミクロでマクロな即興宇宙にタイトルをつけてみた。すると、夢に入り夢からさめる一つの物語が現れた>


現実は夢である。夢は現実である。
夢には、いつでも入れる。音楽は現実ではない。現実から、1フィート離れたところで生まれる、人間の夢である。

第一曲『時の川~夢の入口』から、第十三曲『やわらかい 夢の出口』までの、即興で演奏される曲の連なりは、わたしの感情線に交差し、わたしを先導し、立ち止まらせ、序破急の緊張をつねに用意する。印象をコトバであらわすのはむつかしい。第六曲『私のボッサノヴァ』、第七曲『奏法7』、第八曲『寡黙なサディスト』が私の最も好きな三曲であり、収録曲全体を山に喩えれば、この三曲が山のいただき(~あるいは海に喩えれば最深部)をなすように私にはきこえた。

『私のボッサノヴァ』、は人間の祈り、叫びである。

昨夜はこの曲だけを繰り返して聴いた。ウタが人間を動すのは言葉のゆえではない、声~音によるのであり、コトバを拒否する広い世界があることを確信した。 10/14

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『奏法7』と『寡黙なサディスト』からは、人間の激情、逡巡、思索、そして静寂が聞こえる。私の乏しい記憶の箱からはジョンケージや武満徹が残したコトバが蘇ってきた。


すべての音は透明、無駄がなく、直立している。エモーション発露の現場に立ち会える。グラウンド・ゼロから出立する音の世界がここにある。



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イムプロビゼーションは演奏家の持続する意志によってのみ、実現される。

この数日、わたしは、朝から晩まで 『Dream Vision』 を聴いて、飽きることがない。つねに、1フィート高いところを追求しようとする演奏家のココロザシは、空気の振動となって記憶をリフレッシュし、脳髄を揺さぶるのである。

 13のトラックを13の短編小説に喩えるのは適切ではあるまい。小説は文字として、公認された意味の塊として現前する。音の塊は無形であり、意味としてでなく、ただ、おと、として、都度、あらわれ、都度、消える。個人個人は、意味を都度、付与し、あるいは無視し、そして永久に忘れ去る。毎日毎夜聴く、あるいは、聴き逃す、小鳥のさえずりのように。虫の鳴き声のように。風の音のように。文字の意味が固定してどこかに存在するとおもうのは幻想であり、その都度、個々の人間は、歴史や社会と無関係の地点で、個別の意味を立ち上らせている、といったほうが正確だろう。意味は時間の属性であり、意味は消えるために、存在する。



080927_2135~01001 縮小.JPG cdジャケットから
Dream Vision by micro macro: 蜂谷真紀(voice/piano)+加藤崇之 (ac-guitar)
http://hookchew.com/html/rc_cd.html


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武満徹『ジョンケージの死』(1992/12)から:
 「私がケージから学んだことは、外でもない、音楽は、生活と別に存在するものではないということだった。そしてさらに、一つとして同じ音はこの世界には存在しない、ということだった。それは、音の千差万別を聴き出すということであり、音は生きたものであって、それ自身の美しい秩序を具えている。それを正確に聴くことが、ある意味では、最も創造的な行為なのだ。つまり、音楽は音楽であって、それ以上のものでもなく、それ以下でもない。ケージの音に対する本質的認識は、かれが愛したきのこのように、音は、不意に現れて、直ぐに消えてゆくということだった。この当たり前のことすらもが、ともすると忘れられてしまっている。「音楽」という囲いの中で、記号化された音の人工栽培に現を抜かしているような作曲が、「前衛」をすっかり形骸化してしまった。方法は慣習に変り、頽廃が生じた」 

武満徹『The try --- ジャズ試論』(1957/10)から:
 「ジャズが僕をとらえる魅力は、その獣的ともいえる生命感であり、そこに感じられる不思議な静けさと安らぎである。あまりに反生命的なこの世界でジャズを論じるとすれば、僕などよりはるかに考古学者が適している。
 
ジャズは論じられるべき性質(たち)のものではない。ただ感じるものである。音楽芸術とは、音の感覚的世界を通じて人間の実在を探る、表現の音楽についていえる言葉だろうが、ジャズは、なにものをも探ろうとしない。ジャズは、表現よりも行動という言葉の感覚に近い。それは欲望の呻きであり、嗚咽であり、祈りの呪文である」


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蜂谷真紀

このアルバムは、オーディアンスとの間に次の創造(想像)があったら素敵だな...と思い作りました。
だから、このブログは大変に嬉しいものです。
聴き手に限定的なイメージの音楽を強要するのでなく、
想像の余地を残すというか...ともに創造できる音楽が私は好きです。
きっと、聞き手の皆さんは最終的な主役なのです。

そう、まさに主役にふさわしい感想をありがとうございます!
このブログを読んで、また、それぞれの曲に描いて下さったビジュアルイメージを拝見しまして、私は古井戸さんの感性に感心しています。
もちろん共演の加藤崇之さんや私の即興は(古井戸さんも書いている様に)常に高みを見ようとする2人の好奇心が一つになった世界でありますが、またそこには何の「てらい」もないのですが、
我々の即興音楽が次なる即興や、創造パワーを生んでいるとは嬉しい限りです。

素晴らしい感想を、ありがとうございます。
これからも迷わず勝手なことをやって行こうと思います(笑)
by 蜂谷真紀
by 蜂谷真紀 (2008-10-09 18:31) 

古井戸

赤ん坊が、母親の教えた言葉を発しだしたら(社会化)、母親と社会は喜ぶが、大きなものが失われる。羊水から、出てきた、そのままの記憶?で歌い始めたらどうなるか、という実験はおもしろかろう。何億年前の、リズムと感情を運べるかどうか。

キースジャレットなどの即興は、手垢にまみれたコードが多く、すぐ飽きる。

。。即興という音を作り出すのは、過去の記憶、が元手、じゃないですね?

別の記事で書いたがキースも武満も、即興とは聴くことだという。それは技術レベルのことだけ、じゃないのか。

そのへんの秘密、が演奏をしない私には、わかれへん、

by 古井戸 (2008-10-09 22:51) 

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