SSブログ

追悼 大野晋先生 [Language]

                                     080714_1405~02.JPG

国語学者大野晋先生が亡くなられた。

私は理系出身であり、先生の御著書の一読者にしかすぎない。先生が著わされた岩波古語辞典を発売直後購入し、折にふれ参照した。この古語辞典作成の過程で得られた知見をまとめられた岩波新書『日本語をさかのぼる』を愛読した。記憶を辿れば、岩波日本思想大系『日本書紀』の解説で先生は、日本書紀の記述は日本の文物をまったく解さない中国人の筆になるものである、と断定されていた。さらに、狭山事件(冤罪)では、弁護側証人として、検察が有罪の証拠とした脅迫文の文体筆跡を分析し、石川被告の筆になるものではないと鑑定されたことなどが印象に残る。岩波新書『日本語をさかのぼる』のなかの日本語の基礎語解説は素人にも明解であり、とりわけ助詞<は>と<が>の相違点の記述は鮮やかであった。


先生の著された『岩波古語辞典』(佐竹昭広、前田金五郎両氏との共著)の「序にかえて」は何度も読み返し、そのたびに励ましを得た。ここに抜粋掲載して先生に感謝し、追悼することとしたい(なお私の保持している辞書は1974年初版、全1488頁である。1990年頃増訂版、1530頁、が出版されている)。

080714_1226~01古語辞典.JPG


序にかえて

  長いこと力を注いで来た古語辞典の世に出る日が近づいた。その仕上がりの形を見ると、まことに小さい一冊である。しかし、このささやかな辞書にもそれなりにこれを世に送る志があり、成立の経過がある。今そのおよそのことを記しておこう。
  だれしも、日本人であれば、知的世界に目覚めたとき、眼前にヨーロッパ・アメリカの学芸と技術とを見るであろう。それを学び取ることが日本の将来をきりひらくと多くの人は考える。しかし、ヨーロッパ・アメリカに学ぼうとする主体である日本とは一体何であろうか。
  日本の思想や文化の源流を尋ねるには、さまざまの道がある。しかし、その中で私は、日本語を明らかにすることによって、日本を知るという行き方を選んだ。日本語の根源を明らかに知るために、私は古代日本語を学び、その展開として、日本語の系統あるいは成立を知ることを重要な課題と考えた。そこで私は日本語とアジアの言語との比較を試みたことがあったが、その際に、基礎語なるものが実に重要であることを身にしみて感じた。基礎語は、日本人の物の判断の仕方を根本的に規制している。また、それは長い年月にわたって使われ、変化することが少ない。日本を理解するために、基礎語の個々の意味を明確に把握することは、一つの大事な仕事である。
  その考えによってこの研究に進み入ろうとしていた私は、たまたま「広辞苑」(初版)の基礎語項目約一千の執筆を委嘱され、それに没頭した。ところが「広辞苑」刊行のお祝いの席上、当時の編集部長稲沼瑞穂氏から「古語辞典」を作るつもりはないかという思いがけない言葉があった。それがこの辞書の具体的な出発である。
  由来わが国では「字引」という。不明の漢字の字形・字音・和訓を手軽に知ればそれで終りである。ヨーロッパ語についての辞書もその習慣を引きついでいる。意味不明の語を辞書に求め、当面の文脈にとって適当と思われる訳語が安直に知られれば足れりとする。しかし、辞書はそれでよいものか。
  言語社会における単語は、人間社会における個人に比せられる。人間は、生まれ、成長し、活動し、老化し、死去するという経過を歩む。単語も一つの役割を負ってその言語社会に誕生し、多くの単語の力関係の中で活動し、やがて老化して意味が片寄り、衰えて去るという一生を持つ。広く使われて豪華に生きる単語、全く異なる意味に変身して世を渡る単語、ひそやかに言語社会の片隅に生きる単語がある。児が親の性格をうけつぐように、単語も親の語の意味の血筋をひく。その親の語も、さらにさかのぼれば古い二つの親の語の結合として分析できることが多い。本当は、辞書は単に文脈にかなう訳語を探す場であってはならないものである。辞書は一語一語の出生、活動、老化、死という語の生涯の記録を読み取る場でなければならない。
  殊に日本人の思考の根幹をなす基礎語のごときは、簡単な訳語の羅列によってはその意味を十分には示し得ない。文章を以てその単語の意味を記述し、時に類義語の意味まで併せ記して、その語の個性を明確に弁別する必要がある。それによってはじめて単語の意味の根源を読者に伝えることが可能となり、単語の意味を別の単語で置き換えるという従来の方式を脱した新しい古語辞典とすることができるだろう。  

  (9行省略)

  以上のような考えをもってこの辞書に臨んだのであるが、これを実際に具体化することは至難のわざである。到底私一人のよくなし得るところではない。幸いに前田金五郎・佐竹昭広両氏の参加を得て、三人の協力によってこの辞書の編纂に当たることとなった。古代を大野、中世を佐竹氏、近世を前田氏が主として分担することとした。

  はじめは長くとも数年にしてこれを完成できると考えていた。しかし進むほどに、これは、大海の波濤の中を小舟で漕ぎ渡ろうとするに似た困難な仕事であることを悟らねばならなかった。行けども行けども波は押し寄せて来た。単語に対して誠意をもって努力すればするほど進行は遅くなった。一応の原稿が出来上がって、訳語・例文の検討の会合が重ねられるようになってからは、白熱した応酬が交わされた。主張が分れ議論の激することも屡々あったが、それも、よい辞書を作りたいという三人に共通の情熱から出たものであった。私はこれらの議論を通じて少なからぬ啓発をうけた。
  中世・近世の文献は、数も膨大であり、内容も多岐にわたる。未翻刻の写本あるいは板本の類の、見るべきものは多い。しかもこれらの資料を的確に掌握しなければ、語史を一貫したものとして記述することは不可能である。本書はつとめてここに力を注いだ。それによって、基礎語はもとより、中世・近世の多くの語について、新しい見解に到達したところが少なくないと思うが、これはまさに佐竹・前田両氏の努力の成果である。
  振り返ってみれば、この二十年は私の壮年の時期のすべてに当る。私としては、ほぼ力の限りをつくしてここに到達したように感じる。おそらく前田・佐竹両氏も同じ思いであるに相違ない。しかも、果してこれは所期の内容を十分に実現したのかと問われれば、ただ、かなり誠実に奮励しつづけて来たとしか申しようはない。力及ばず、行きとどかなかった所も多々あると思う。それについて博雅のお教えを心から願う。

(11行省略。原稿執筆者、校閲者、書店への謝意)

  以上を記して、編纂の責任を共に負う前田・佐竹両氏ともども厚く感謝の意を表したい。
       昭和四十九年初秋               
                                            大野 晋


                                 080712_0807~01.JPG


080714_2005~01古語辞典序.JPG
nice!(1)  コメント(11)  トラックバック(2) 

nice! 1

コメント 11

kyoka_nk

私も同じ『岩波古語辞典』を持っています。
私が持っているのは1975年12月15日 第3版全1488頁です。

大野晋先生は『日本語練習帳』でも著名だそうですね。
こちらはもっていないのですが…、マイミクの方の日記で見かけました。その方は大野先生の授業を受講していたそうです。

ご冥福をお祈り致します。
by kyoka_nk (2008-07-16 17:57) 

オミ

オミと申します。

私のブログにコメントをいただきましてありがとうございました。

同じ辞書を愛用している者ですが、今の今まで、序文に目をとめることもなく過ごしておりました。
古井戸さまのおかげで、もう一度先生の書かれた未読の文章に出会えて、感激と感謝で言葉もありません。

また、大野先生が日本語に対して向けていらした情熱が、辞書を使っている古井戸さまに、まっすぐに受け止められていたことを知り、あらためて涙があふれます。

このたび、「序にかえて」を読み、本当に、名文だと思わされました。
特に、「しかし、辞書はそれでよいものか」の一文には、先生らしい、情熱があふれているように感じます。
大野先生が、広辞苑を最初に作る過程で、「基礎語の項目も説明も少なすぎる。当り前の言葉だから説明は要らない、というのではだめだ。よく使う基礎語こそ、厳密に説明したい」と主張なさったというエピソードを思い出しました。

本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。



by オミ (2008-07-17 21:25) 

オミ

すみません、上のコメントを書いて、トラックバックさせていただこうとしたんですが、なぜかうまくできません。
あらためてアドレス入りでコメントします。
失礼いたしました。

by オミ (2008-07-17 21:30) 

古井戸

オミ様
お読み頂きありがとうございます。

基礎語の重要性や辞書の在り方に関して強い意見を大野先生はおもちでした。これは、国語だけのことではなく、外国語でも同じだと思います。Oxfordの汎用の現代辞書であっても、語義の解説が2~3行に対し、語源解説に10行以上をあてる、という例もめずらしくありません。これに比較すると、広辞苑などの最近の辞書の傾向は納得できません。語数ばかりを誇っている。読む辞書、日本語を学ぶ辞書、から遠ざかっています。

昨日の毎日新聞には丸谷才一による追悼文が掲載されていました。
大野晋著作集もいずれ岩波から出るものと想像しますが、高額になりそうだし場所も取るから買えません。せめて先生の新書や文庫は品切れにならないようにしてもらいたいものです。
by 古井戸 (2008-07-17 23:48) 

古井戸

kyoka様
日本語練習帳は私は持っていません。書店で立ち読みし、大野先生の書いた本して上出来ではない、読まずとも損ではない、と。

それより、詩を作る人々に必要なのは俳句における歳時記とおなじように、類義語辞典ではないでしょうか。角川書店から大野氏(監修)で出ていた類語新辞典は語数が非常に少ないのが難点ですが、数年前山口翼著日本語大シソーラスが出版されるまで簡単に入手できる唯一のものでした。
英作文をするには英語シソーラスを手放せないのと同様、日本語作文で必要なのもシソーラスです。これが十分に供給されていない、ことはどこかに、作文だけでなく、思考や表現力、構成力にたいする軽視が日本にある、とわたしはおもっています。
by 古井戸 (2008-07-18 07:52) 

高塚タツ

わたくしのブログに目を通してくださって、ありがとうございます。トラックバックとかリンクとか、まだできないので、とりあえず、御礼まで。
by 高塚タツ (2008-07-19 21:29) 

北原真夏

TBありがとうございます.大野先生の切りひらかれたことごとに本当にいろいろ学んできました.これからもよろしくお願いします.
by 北原真夏 (2008-07-20 00:02) 

海外逃亡者

25日の朝日新聞朝刊の1面に、国語に関する意識・理解度の調査をまとめた記事が出てます。これは、文化庁が2007年度、全国1975人の16才以上の日本人に直接インタビューし、調査したものです。

以下、記事より
---------------------------------------------------------

[どちらの言い方を使う?]

① 「全力で物事に取り組むこと」を

○ 心血を注ぐ    64.6%
× 心血を傾ける   13.3%

② 「論理を組み立てて、議論を展開すること」を

○ 論陣を張る 25.3%
× 論戦を張る 35.0%

③「何かがきっかけになって、急に物事の本質がわかるようになること」を

○ 目から鱗が落ちる 80.6%
× 目から鱗が取れる 8.7%

④ 「卑劣なやり方で失敗させられること」を

○ 足をすくわれる  16.7%
× 足元をすくわれる 74.1%

⑤「胸のつかえがなくなり、気が晴れること」を

○ 溜飲を下げる  39.8%
× 溜飲を晴らす  26.1%

[どちらの意味を使う?]

① 話のさわりだけを聞かせる。

○話などの要点のこと 35.1%
×話などの最初の部分のこと 26.1%

②7日間に及ぶ議論で計画が煮詰まった。

○ (意見が出尽くして)結論の出る状態になること   56.7%
× (議論が行き詰まり)結論が出せない状態になること 37.3%

③ 憮然(ぶぜん)として立ち去った。

○ 失望してぼんやりとしている様子   17.1%
× 腹を立てている様子           70.8%

④ 檄(げき)を飛ばす。

○ 自分の主張や考えを広く人々に知らせて、同意を求めること 19.3%
× 元気のない者に刺激を与えて、活気付けること         72.9%

⑤ 琴線に触れる。

○ 感動や共鳴を与えること  37.8%
× 怒りを買ってしまうこと   35.6%

注)正誤がわかるように、○×を着けて強調し、数字内の括弧を取り外しました。
---------------------------------------------------------

この数字が示す現状に対して、この偉大なる国語学者はどう感じられるか、気になります。
 
by 海外逃亡者 (2008-07-25 10:39) 

高塚タツ

古井戸様
 大野晋先生の大きなお仕事の一部しか知りませんでした。最近また、源氏物語の「大沢本」という不思議なものが出てきて、大野先生がご健在なら、どうおっしゃるかと思います。
 トラックバックが、どういう仕組みで付けたり外したりできるのか、悩んでいるので、ちょっと練習をさせていただきます。
 もし、よろしければ、当方記事へのコメントもお願いいたします。
 
by 高塚タツ (2008-07-25 13:38) 

古井戸

逃亡者様
私はこう言うのは苦手ですね。
ドッチも○でいいのが多いのじゃないでしょうか。慣れの問題です。慣用が変動すればソッチに従えばいい。年寄りが、それはまちがい、これがただしい!などと余計な説教はしたくありません。言葉、に関しては。

高塚さん。アクセスが拒否されます。登録ユーザでなければ駄目のようです。
残念ながらわたしは源氏は素人です。大沢本、というのも巻ごとに作成者が別の写本の集合のようですね。

先日北京からやってきた王義之、だったか(日本で展覧会をヤル)の名筆、といわれているものも真筆ではなく、写本だという話。書、にも、写本というのがあるなんて知らなかった。。。http://eunica.noblog.net/blog/l/10575568.html
by 古井戸 (2008-07-25 16:00) 

高塚タツ

ますます謎が深まりました。失礼いたしました。
by 高塚タツ (2008-07-26 11:03) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 2

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。