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橋本忍 『複眼の映像 -- 私と黒澤明』 [Art]

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橋本忍と黒澤明@昭和35年 080505_1721~01001.JPG


共同脚本、というのは黒澤の専売特許なのか?そんなことはないはずである。小津安二郎もやっていたはずだ(しかし、<共同>の形態がちがっているのだろう)。

黒澤のやり方は、全く同じ進行場面を2人~3人が描き、仕上がったところで、別の裁定者(七人の侍では、小國英雄。彼は一行もシナリオを書かない)がどれかを採用する。その決定に誰も異議は挟めない。採用した進行を元にまた、複数のライターが続きを書く。書いている間この裁定者は同じ宿で寝ころんだり、ぶらぶらしているのだという。
                                 
なぜ共同なのか?黒澤は、監督の自分だけで書くと、現場で辛くなる書き方をつい省略するから、であると説明する、
  が、
橋本忍はそれは、まっ赤な嘘である、という。黒澤はそんなことができるわけがない。共同でやればいいものができるから。それだけである。しかし、一人で描けば一月で仕上がるところ、複数でやれば数ヶ月、最悪半年かかる。しかも、ニッポンの代表的なライターをこの間、複数、拘束するのだから会社の出費が馬鹿にならないし、ライターにとっても長期間費やして一本では収入が減る。

重要なことは<裁定者>自身も優秀なシナリオライターであるが、このときシナリオを一行も書かないことだ。七人の侍では、小国英雄(一流の脚本家である。NHKの番組では橋本は敬愛を込めて小國ダンナ、と呼んでいた)が裁定者になった。




乱や影武者の失敗は、黒澤が編み出した共同執筆という形式を放棄し、黒澤の独断で書いたため、である。

しかし、力があり自尊心の強いライターを従えてリーダーシップをとれる監督が黒澤以外にいはしない。

黒澤のすぐれたところは人物の造形力である。大学ノート一杯に登場人物の造形をやっていく。絵コンテも描く。 橋本忍は伊丹万作門下。黒澤より10歳年下。いつかは黒澤の上をいくシナリオライターになってやる、と意欲満々であった。黒澤のように絵コンテの描けない橋本が、人物造形力をみにつけるにはどうするか。かれは<山手線方式>を編み出す。一日中山手線にのり、乗車する客から使えそうな人物パターンを蓄積していき(クレッチマーか?)、以後、このストックから選び出して登場人物に当て嵌めていくのである。

張り込み、砂の器、八甲田山、という大当たりも取るが、幻の湖、という大失敗もやらかす。http://www.youtube.com/watch?v=5spuk17nE5w

wiki 幻の湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E3%81%AE%E6%B9%96

黒澤は既にこの世にいないから、黒澤が生きていれば書けないような批判も遠慮なく書いている。橋本忍がこの本を書いたのは88歳の頃になる(3年前)。 新藤兼人と同様、長持ちの人である(丈夫、ではない)。


080505_1736~01野村.JPG 野村芳太郎



橋本は、黒澤の助監督であった野村芳太郎(『砂の器』監督)に尋ねた:
「黒澤さんにとって、私、橋本忍って、いったいなんだったのでしょう?」
野村「黒澤さんにとって橋本忍は会ってはいけない男だったんです」
  「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから、映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになった」
橋本「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』が?」

野村「それらはないほうがよかったのです」
  「それらがなくても、黒澤さんは世界の黒澤に。。現在のような虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています」
  「僕は黒澤さんに二本ついたから、どれほどの演出力。。つまり、力があるかを知っています。彼の映像感覚は世界的なレベルを超えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もない強いエネルギッシュなものに溢れている。だから。。。いいですか、よけいな夾雑物がなく、純粋に。。純粋にですよ、映画のおもしろみのみ追求していけば、彼はビリーワイルダーにウイリアムワイラーを足し、2で割ったような監督になったはずです」
  「ビリーワイルダーより巧く、大作にはワイラーよりも足腰が強靱で絵が鋭く切れる。その監督がどんな映画を作るのか。。橋本さんにもわかるはずです。。。文字どおり掛け値なしの、世界の映画の王様に。。橋本さんはそうは思いませんか?」
  私(橋本忍)は目の前がくらくらした。野村さんの言っていることにも一理あるが、どこか衒学的であり、肝心な点が間違っている。なにか言おうとした。だが言葉が出ないp227


しかし、一方で、若くしてなくなった師である伊丹万作が天国で語る声を橋本忍は聴いている:
「橋本よ。。。いつかはおまえが出会う、いや、会わねばならぬ男、それが黒澤明だ」p42




黒澤と橋本忍の関係を軸に、その周辺のシナリオライター(菊島、小國)の仕事ぶりを橋本忍の視点でみたヒストリーである。このヒストリー自体が橋本の傑作シナリオである『羅生門』的面白さ。


『七人の侍』。。。現代版に書き直すとすれば、野武士は、政府か、官僚か、警察&ウヨクか。 侍は?



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080505_0612~01.JPG 黒澤@昭和23年頃


昨日からNHK BSでは10年前に放映した黒澤キャラクタ特集を再放送している。改めてみて、面白かったのは、橋本忍による黒澤との交流(この本の内容と同じ)、それに、大島渚による黒澤評価である。

黒澤全集を引っ張り出してみたが、当時の映画評論家の黒澤評価はとてつもなく厳しく、トンチンカンなモノが多いが、逆に、淀川長治のような西洋ザルが、小津安二郎を全く理解せず、小津には映画のリズムと文法が欠落している、として黒澤を持ち上げるのも惨めで滑稽、贔屓の引き倒しである。

山田洋次が晩年の黒澤宅に呼ばれて、訪れたとき、黒澤明は一人でビデヲを観ていた。それは小津安二郎『東京物語』であったという。

大島渚の黒澤批判は、技法としてはともかく、内容が古い、というものだ。女性を描かない、とか、シェークスピアなど戦後とりあげる必然性があったのか(黒澤の戦争協力も暗に批判している)?

映画『乱』の試写会。橋本忍は、焼け落ちる城から、白髪を逆立てた幽鬼のような老人(リア王~仲代達矢)がふらふら出てくるのをみて、口の中で声をあげた。この老人が黒澤明に見えたのだ。


黒澤は独断的な芸術家になってしまった、と橋本は批判している。わたしも、『赤髭』より後の黒澤作品は何度見ても、最後に到着する前に、途中で放り投げてしまっている。NHKのメーキングフィルムをみると、黒澤はスタッフや俳優をどなりまくっている。「きみは下手なんだから、端っこにいろ!真ん中に出てくるんじゃない!」 聴くに堪えない罵詈雑言である。私が俳優だったら監督を殴り倒してオサラバするだろう。それでも黒澤を許せるのは彼の飽くなき努力ゆえ、である。おなじNHKの番組で谷口千吉(監督)が語っている。「ぼくと黒澤は戦時中、あるブリキ屋に下宿していた。深夜になっても黒澤はシナリオを書いている。おい、寝られネエじゃねえか!電灯を消せ!と怒鳴る。背の高い黒澤が立って電灯を消す。ところがしばらくすると畳の上に蝋を垂らして蝋燭を立て、また、書き出す。ぼくと黒澤に差があるのはこの辺ですね」



080505_0046~01伊丹万作.JPG 伊丹万作 1900-46 


字を書く職人であれ。伊丹万作はこのことを橋本忍に何度も述べたそうだ。
橋本忍は、シナリオライターとは職人である、芸術家であろうとおもうな、という戒めであると解釈した。
1946年9月21日肺結核で伊丹万作死す。橋本は伊丹の死を、新聞の死亡欄を読んで知った。

橋本が療養所で最初に書いたシナリオ『山の兵隊』を、伊丹万作に送ったのは療養所を無断退院して姫路でサラリーマンをしていた頃。1942年のこと。伊丹からは丁寧な返書が来た。橋本は京都に伊丹を尋ねて指導を受けた。シナリオは会社までの通勤電車で書いた。

伊丹万作法要の席で、伊丹の奥さんが伊丹万作の助監督を務めた佐伯清を紹介した。佐伯は黒澤明と知人であった。この縁で、橋本の書いたシナリオ『雌雄』に黒澤が目をつけた。が、このシナリオは短すぎる、と黒澤が言う。芥川の『羅生門』を追加することを伊丹が提案した。



『複眼の映像』 2006年6月25日 文藝春秋 306p
プロローグ
第一章 『羅生門』の生誕
第二章 黒澤明という男
第三章 共同脚本の光と影
第四章 橋本プロと黒澤さん
第五章 黒澤さんのその後
エピローグ 




追記 5/12:

村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)は、橋本忍の自宅を訪れた著者のインタビュが載っていて興味深かった。

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橋本忍は、村井にこう語った:p167

「(師匠の)伊丹万作さんが、あるときぼくに『君、オリジナル脚本ばっかり持ってくるけど、原作ものはやらないの』と言うから『僕はやったことがないんですけど、やるんだったらこんなふうにやりたいです』って言ったんだ。

柵の中にね、牛が一頭いるんだよ。何日も何日もその牛を見に行くんだ。じーっと見ていて、ここが急所だ!と思ったら、柵を開けて中へ入って、鈍器で一撃のもとに倒して、鋭利な刃物で喉を切って、頸動脈の血をバケツに入れて持って帰って、それで(脚本を)つくる。原作の姿形なんてまったく要らない。欲しいのは生き血だけ。やるんだったら、そういうふうにやるって言ったんだ。

そしたら伊丹さんは『橋本君の言う通りかもしれんな。一番効率的で手っ取り早いだろう。だけどこの世の中には、やっぱり殺さずにね、いっしょに心中しなきゃいけない原作もあるよ』って言われたんだよ。それはよく覚えている。だけど、僕にはやっぱり、一撃のもとに倒すことが大事なんで、殺し損ねて暴れ出したら手がつけられなくなる。だから原作は二度と読まない。脚本を書くときも読まないし見ない。もう、要らないものになっているんだよ。50年やってきたけど、心中しなくちゃいけない原作なんて、とうとう一遍も会わなかったよ。ない。そんなもの、ないよ。一撃のもとに殺したときが一番効果がある。手間がかからない。小説と脚本はそもそも全然違うんだから、こだわっても意味はない。本を書くときに原作を読み返さなければいけないときは、失敗作だよ」


著者村井も『。。なんともすごい覚悟ではないか』と言っているが、わたしもオドロき、かつ、感動した。 弟子にここまで開き直られたら、師匠も口をつぐむしかあるまい。


橋本忍は、伊丹万作を越えているのではないか、とさえおもった。
『八甲田山』や『砂の器』。。などのシナリオを伊丹が生きていたらどう評するのだろうか? 
わたしは、映画『砂の器』があまりに原作を離れすぎているのが問題だ、と思っていたのだが、原作に忠実、なんてシナリオ作法は橋本の眼中には最初からなかったのだ。 唸ってしもうたぞ。


NHK TVでも山田洋次(橋本忍の助手)が語っていたがこの膨大で複雑なストーリを持つ清張『砂の器』のシナリオ化は不可能、と観念しかけたのだ。。が、橋本はこの原作のなかの キーは、ここにある!と、ハンセン病の親と、その息子が

「。。福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子二人にしかわからない」

。。という原作(新聞小説)のたった2~3行に赤線を引き、山田洋次に示し、「山田君、ここだぞこの映画は」、と。

これで、この映画のラスト30分、主人公(加藤剛)の演奏と、警察の捜査会議、それに、親子の人目を忍ぶ旅、が同時進行する、という 橋本忍の言う(二度と同じ技を使えない)一世一代の 『マクリ一発』ができあがった。

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橋本忍がこの映画の公開直後、仙台のある放送局を訪れたときのこと。廊下を歩いていると、若い女性があとを追いかけてきて、『橋本先生ですか?わたし、砂の器を20回見ました! ありがとうございました』と、だけ言って立ち去った。

20回も同じ映画を立て続けに観る、などは尋常のことではない。名作であっても、精神力の限界を超えている。映画そのものに余程の力がなければありえないことだ。橋本は『ああ、やった。マクリが成功したのだ』と喜んだ。

##

この師匠にしてこの弟子有り、ということか。

わたしは、シナリオ書きじゃないが、この話から、読書というもののありかたを学んだ。本のなかの急所を掴み、自分なりに脚色して理解する、という読み方である。 文字になっていないことまで読む。これは読者に与えられた自由である。


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さくらスイッチ

意識しようとしまいと映画には時代の空気が反映されますが、映画批評にも個人の嗜好のみでなく時代の空気が反映されるものなんだと感じてます。そして、映画もその映画批評も時代を経れば共に新たな批評の対象になり、より「映画の周辺」を知ることが出来るようになるのは、とても面白いと感じます。

とはいうものの、そんな風に時代を超える事が出来る映画は数少なく、多くは消えていってしまいます。今なお多くの人に愛されている黒澤映画や小津映画は、幸せな映画作品だと思わずにはいられません。

『全集黒澤明』という本があるという事を初めて知りました。シナリオも収められているようなので、今度、橋本忍氏のことを意識しながら読んでみたいと思います。
by さくらスイッチ (2008-05-05 22:00) 

古井戸

全集黒澤明(岩波)、はいま、古書店でしかないのですが。。
わたしのもっているのは第三巻だけ。醜聞、羅生門、白痴、生きる、。。などが収録されています。

小津も黒澤も、という批評家は案外少ないのではないのでしょうか。海外ではドナルドリチーなどは両監督を評価していますが。小津と黒澤の芸術というのは同じスクリーンに映す、というだけで、同じ言語芸術とはいっても、詩と散文ほども違う、と私は理解しています。手法も対象も。

シナリオと、普通の小説はどうちがうのか?というのが疑問なのですが。橋本さんもチョロリ、とこの本で説明していますが一般人を納得するほどの記述ではありません。新藤兼人などもシナリオ作法を単行本にしているのでいずれ読んでみようと思います。シナリオとは設計書=指令書、ですが書かれていないことが圧倒的に多いですからね。美術や、大道具小道具、撮影技法、証明、ロケ場所。。などなど。
by 古井戸 (2008-05-05 22:31) 

cozycoach

野村芳太郎の黒澤と橋本に関する言葉は、ドキッと来ましたね、一体どういう意味なんだろうと、黒澤はもっと別の映画監督として成長すべきだったといってるんでしょうか、もっと娯楽に徹して変な思想性を入れないような。確かに、乱は失敗作だと、僕は思います、思想なのか世界観なのかそれが先走ってしまって、観客にそれを押し付けるような感じがあります。ただ、映像は美しいと思いました。

橋本忍の砂の器を観た後に原作を読みましたが、感動の濃さで段違いでしたね、映画のほうが急所を押さえてあるだけに、相当に優れたものになっていたと感じました。
by cozycoach (2008-05-12 16:18) 

古井戸

野村芳太郎も、かなりデマカセ、ハッタリ屋だったのじゃないでしょうか。
監督、と、シナリオ書き、では要求事項がちがいますからね。

シナリオ、だけでは映画はできないと思います。

『砂の器』。。原作は面白く読みました。清張の推理小説としては面白かった(ハンセン病患者にとっては辛かったでしょう。清張にそんな意識など全くないのだから)。

読む人が読めば清張の原作からもハンセン病のツラサや、世間の冷たさは十分感じられるはずです。映画のように、砂糖でまぶさなければニッポンの観客には訴えない、ということですね。
by 古井戸 (2008-05-15 11:50) 

さくらスイッチ

>文字になっていないことまで読む。これは読者に与えられた自由である。

共感しました。 ^^♪

*TBさせて頂きましたが、二回もping送信してしまいました。ひとつは、お手数ですが消してください。 m(_ _)m
by さくらスイッチ (2008-05-17 22:12) 

ふるやま

『砂の器』を観た山田洋次が、どうしてあの親子はあんな厳しい自然条件や危険な崖の上ばかり歩くんだろう、と言ったとか。うーん。
それを行っちゃお仕舞いだよ、という感想と、映画とはそういうものだという思いに私も引き裂かれます。よくテレビドラマで、雨の中、主人公が傘もささずに恋人のところへ駆けつける場面を見る度に、コンビニでビニール傘を買えば良いのに、と思う私は思うのですが、そういう余計なことを思わせないレベルのドラマが本当のドラマなんでしょうね。
by ふるやま (2008-07-18 18:49) 

古井戸

私はこの映画を観ていないのです。TVで時々放映されていましたが、どうもあの、芥川の、オセンチな音楽に辟易。

福井から島根。 それほどの距離ではないですね。歩いたって。
厳しい自然。。といっても氷河や砂漠があるわけじゃないし。

厳しい自然条件(でも、映画のスチルをみるとそれほど厳しくもなさそうだが。。。太平洋戦争末期の南洋やマレーフィリピンなどで兵隊さんが味わった苦労にくらべれば屁でもない)といっても知れている。

厳しかったのは人間の視線でしょう。これを自然条件に置き換えて表現した。
by 古井戸 (2008-07-18 19:28) 

ぶー

>山田洋次が晩年の黒澤宅に呼ばれて、訪れたとき、黒澤明は一人でビデヲを観ていた。それは小津安二郎『東京物語』であったという。

このエピソードは黒澤より小津を信奉している人達が好んで
引用したがります。
山田洋次と交流があるとも思えない蓮實重彦までもかなり
嫌みったらしく紹介してるぐらいですから。
晩年の黒澤は、小津映画ばかり見ていたわけではない。
北野武から宮崎駿、スパイク・リー等等。
「小津を見ていた」ことに何か特別な意味を見出さない方が
いいかもしれない。
「小津さんは、サイレント時代の方が良かった。でもトーキーになってから一本だけいい映画を作った。それが晩春だ。でも小津さんの映画を見てると、小津さんの事を思い出して涙が出てくるんだよね。」
山田洋次が目撃した時も黒澤は泣いてたのかもしれません。
by ぶー (2009-07-03 17:45) 

古井戸

> このエピソードは黒澤より小津を信奉している人達が好んで
引用したがります。

そうではなく、黒澤映画は映画の文法に従っているが、小津映画は映画の文法に反する、から西欧人に(日本以外に)通用しない。。という誤解をふりまいた(信じる人は少なかったが)淀長のようなひとをからかっているだけです。

黒澤も小津も同じ映画、と言って済ませるのは、詩歌と散文が本屋の棚に並んでいる。。というだけで同じジャンルの芸術、とみなすのと同じことです。

私自身は黒澤の映画は誰も見向きもしなくなることはあっても小津の映画はそういうことはあるまい、と思います。(特に、日本以外で)

by 古井戸 (2009-07-03 21:09) 

さくら

>>わたしは、シナリオ書きじゃないが、この話から、読書というもののありかたを学んだ。本のなかの急所を掴み、自分なりに脚色して理解する、という読み方である。 文字になっていないことまで読む。これは読者に与えられた自由である。

古井戸さんすばらしいです!

さくらも激しくそう思っていました!


うまく言葉にできなかったけどそのように感じていました

ありがとうございます!

(こちらにもおじゃまし失礼します)

by さくら (2009-08-28 01:19) 

古井戸

読み返して、ニンゲン同士の邂逅ということを考えた。

伊丹が橋本忍と出会ったのは死の直前である。伊丹は、自分がいなくなったあとの橋本の面倒を知人に依頼して世を去った。それで東京に出て黒澤などとのつきあいも生まれた。

伊丹は芸術論集を残しているが、橋本(という門人、おそらくただ一人の弟子)に出会って相当の影響、芸論の修正を迫るような影響を受けたのではあるまいか。
by 古井戸 (2009-08-28 02:40) 

さくら

弟子が師匠に影響を及ぼしたのですね

さくらもこの番組見ました

橋本さんが黒澤監督にギャンブラーと言われたってゆうのがおもしろかったです

>>ここが急所だ!と思ったら、柵を開けて中へ入って、鈍器で一撃のもとに倒して、鋭利な刃物で喉を切って、頸動脈の血をバケツに入れて持って帰って、それで(脚本を)つくる。


こうゆう“衝動性”みたいなとこがギャンブラーと言われたのかな

鋭利な刃物で・・という表現はやっぱり物語を作る人ってすごいと思いました

ドSですよね・・

バカっぽい言い回しですいません;
by さくら (2009-08-30 01:48) 

古井戸

橋本忍には閃き、があったんだろう。
黒澤にはないね。そーゆうものは。。というか。。橋本は上から攻める。黒澤は下から攻める。

七人のサムライ特集で、橋本がいっていたが、黒澤はシナリをを書き始める前に、登場人物のキャラを徹底的に書き下す。カンベエだけでノート一冊になるくらいに。菊千代、リキチ、。。主な登場人物を造形してしまう。すると、あとは事件と出会いを一滴与えてやればだまっていても勝手に動き出してしまう。理詰めに、ジグゾーパズルを埋めるようにこしらえるのが黒澤。

村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』は、映画・羅生門への寄与率、というものを計算している。橋本と黒澤ではどっちがこの映画に対して貢献しているか。村井によると橋本のほうがはるかに高い、らしい。

しかしそれはマチガイだと思うね。個人の思いこみでは失敗することが多い。共同脚本では成功したが、単独作業では失敗する。これを身をもって証明したのが黒澤であり、橋本。

野村芳太郎のいうように橋本と黒澤は出会うべきでなかった、そのとき、黒澤はどんな方向にすすんだろうか。それを考えるとおもろいね。
by 古井戸 (2009-08-30 03:09) 

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