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指揮者なし パフォーマンスにおける自己決定 [Art]

昨日の夕刊。演奏会の宣伝にふと目がいった。ヨハネ受難曲である。

 

 

<指揮者なし>とある。検索してみると。。http://www.operacity.jp/concert/2007/080302_about.php

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現代屈指のエヴァンゲリスト歌いのパドモアと英国を代表するピリオド楽器オーケストラのOAEは、これまでさまざまな指揮者の下で受難曲を共演してきたが、どこか納得がいかなかったという。「バッハの時代の演奏習慣を考えると、受難曲には指揮者という存在はそぐわないように思うのです。指揮者を置かないことで、全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で音楽を創っていこう、というのが出発点でした」とパドモアは語る。

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さらに、キャロリン・サンプソン(ソプラノ)はインタビュアに対して、次のように答えている:

http://www.operacity.jp/concert/2007/080302_interview.php

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◎キャロリンさんは、マーク・パドモア&OAE(エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団)のヨハネ受難曲プロジェクトには初めての参加になりますね?初めて「指揮者なしでヨハネを演奏する」というアイデアを聞かれたとき、どう思われましたか?

マークから直接話を聞きましたが、なんてすばらしいアイデア!と思いました。これまでもフライブルク・バロック管などと指揮者なしの公演で歌ったことがありましたが、ヨハネは初めて。とても楽しみにしています。

もちろん、すばらしい指揮者は私たちに多くを与えてくれますし、これまでの共演で学んだことはたくさんあります。けれども指揮者とソリストがいるということは、かならず「二つの意見」を調整する必要があるわけで、今回のやり方はその部分のコントロールがもっとうまくできるのではないかと思います。またオーケストラの各メンバーも、指揮者がいないことで、より積極的、より自発的に自分の音楽を表現しようとするようです。今回は編成も小さいですし、より密なコミュニケーションがとれるのではないでしょうか。われわれソリスト6人は合唱パートも歌い、そのほかに合唱メンバーが6人入るはずです。

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キャロリン・サンプソンの語っていることは、インプロヴィセーションとはなにか、に対する一つのヒントを与えてくれまいか(もちろん、ヨハネ、ではバッハが残した楽譜があるが。即興演奏もおのれが何ものかを産み出すのではなく、過去に聴いて返答せずにいる他者の声に対する応答ではないか) 指揮者のいる演奏とは、それでは何なのか?と問うてみなくてはならなくなる。読経をおこなう複数の僧侶に対して『経は口で称えるな、耳で称えろ』と老師は教える。お経であろうと楽器であろうと歌唱であろうと、耳がなくては称えられないし、演奏できず、唄えない。すなわち、耳、聴覚は楽器の一部である。他者の発する音を聞き、おのれの楽器から出る音を聞き、おのれの耳にきこえる音と、おのれの内部から発する、かくあるべし、という命令に従っておのれの出す音をコンマ何秒以内に調整する。これが演奏なのであろうか。演奏家おのおのの内部に、独立した指揮者がいる、ともいえよう。しかしその演奏家の内部にいる指揮者は、外部からは演奏家当人と区別はできない。外部の演奏家との音のコミュニケーションにより自己の発する音を制御する(演奏家が耳で聴く音は、指揮者が聴く音とも、演奏会場で観客が聴く音とも、異なる)。

 

小規模の演奏家で演奏する音楽(デュオ、や、弦楽四重奏など)では指揮者はいない(いてもおかしくはない。ソロ演奏であっても、だ)。数十名の演奏でも指揮者のいないことは珍しくもない。十人前後のコーラスに指揮者は付く(高校の合唱コンクールで、生徒達だけで勝手に演奏しなさい、というスタイルをみたことがない。ふつう担当教師が指揮をとる)。

 

<指揮者>の有無、要不要。問題は音楽演奏の世界だけの話ではないようだ。

 

パドモア 「バッハの時代の演奏習慣を考えると、受難曲には指揮者という存在はそぐわないように思うのです。指揮者を置かないことで、全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で音楽を創っていこう、というのが出発点でした」

指揮者はコントロールタワーとなって演奏を制御するのがその役割である。<指揮者という存在>だけでなく、演奏を制御するのは、残された作曲者の(つまりバッハの残した)記譜である。<全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で。。>というのであれば、バッハの残した記譜も演奏にとっては桎梏になるのか?しかし記譜を離れてはヨハネ受難曲、もありえない。言葉では言い表せない、記譜~演奏の間の機構がありそうである。同じ記譜から自動ピアノのように毎回、あらゆる場所で、同一な音を出す必要もない。さらに、ある創造を記録に残すには、記譜という文法は不十分すぎる、ともいえる。ある天才的思考や発想をたかだか数千の文字と文法=過去の人間思考のゴミ捨て場、に押し込めることが不可能であるのと同じ。指揮者の存在だけでない。演奏会場(東京オペラシティコンサートホール)はバッハが想像もしなかった音を観客に届ける電子設備の塊である。われわれの聴覚も精妙なる電子装置であることにはかわりなく、おまけに、脳内の視聴覚趣味嗜好ソフトウェアはいつでもダウンロード、入れ替え可能ときている。

 

 

追記(2/1):

本日、書店にでかけ、武満徹対談集がちくま学芸文庫になっているのを知った。武満の、過去の膨大な対談からセレクトしたもの。

キースジャレットとの対談を読むと武満が即興についてキースに語りかけている。キースはこう言っている:

僕は即興演奏を、リスニングと呼んでいる。複数で演奏しているときは彼らの出す音を聴くし、一人の時も自分の音を聴く。。。これがなきゃ即興演奏はできない。

若干記憶違いがあるかも知れないが、こういうことをしゃべった。これにたいして、武満は、

作曲もリスニングだ。つまり、前に書いた音を<聴いて>、次の音を出していく。なにもなければ、創作だ(武満はここで、創作と、 即興~作曲を区別している)

と応じていた。 この対談の初出は『すべての因襲から逃れるために―武満徹対談集』(音楽之友社、1987/3)。

 

リスニングの重要性。音楽だけ、のハナシではあるまい。人間の思考と行動、スベカラク、イムプロヴィゼーションである。

 

                     

 

関連記事:  芥川比寸志と武満徹

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-23-1

Dream Vision 音の根拠 http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-09-27
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コメント 5

aosta

はじめまして。aostaです。

TBをありがとうございます。
気がつくのが送れ申し訳ございませんでした。

聴くことと、演奏することについての深い洞察、興味深く拝見させていただきました。
「聴くこと」から始まる音楽。
音のもつ同時性、不可逆性ということと共に考えた時「聴くこと」の特異的な姿勢を教えていただいたように思います。
重ねて御礼申し上げます。
by aosta (2008-02-08 11:56) 

古井戸

aostaさん。
 追記したように、私の大好きなジャレットが、即興演奏をリスニングと言っていることにビックリすると同時に意を強くしました。もちろん、聴く、とは単に鼓膜で聴く、のではなく指で聴き、皮膚で聴き、脳内で過去の記憶も聴いているのだと思います。
by 古井戸 (2008-02-08 14:36) 

aosta

>脳内で過去の記憶も聴いているのだと思います。

同時進行形で現在と過去の音楽を聴く・・・。
すごく素敵でぞくぞくしてしまいました。
by aosta (2008-02-08 16:36) 

aosta

古井戸さん、ブログにたくさんのコメントをありがとうございます。
ぎっくり腰(悲)の痛みがひどくて、PCの前に座っていられません。
落ち着いたらお返事を書かせていただきます。
もうしばらくお待ちください。
by aosta (2008-02-11 14:28) 

古井戸

aostaさん。
Snow life = Slow life
ゆっくり、ゆっくり、歩みましょう。
by 古井戸 (2008-02-11 15:29) 

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