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『ウェブ社会をどう生きるか』 西垣通  現代はウェブ社会か? [IT]

                                   

 

 

本書の内容。

第一章 そもそも情報は伝わらない

第二章 いまウェブで何がおきているか

第三章 英語の情報がグローバルに動く

第四章 生きる意味を検索できるか

第五章 ウェブ社会で格差をなくすには

私は著者と同じ団塊世代である。IT本でまともなものをいまだに読んだことがないのだが、この本にもハッとさせられる記述はなかった。

そもそも、情報という言葉をつきつめて考えていない。情報という日本語(何語であれ)は必要なのだろうか、と問い、他の言葉(データ、信号、知識などで)で十分間に合う、と坂本賢三(科学史家)は30年前に述べていたが、いまだに(あるいは、ますます)この言葉は有効であろう。新聞を開けば何万語、何十万語の語が眼にはいる。TVからはニュースを朗読するアナウンサの嬌声が聞こえ、阿鼻叫喚の画像が眼にとびこむ。パソコンを開けば時々刻々最新ニュースが更新されている。ニューヨークタイムズを開けば世界の話題とNYCのローカルニュースが読め、日本の地方紙を開けば田舎の状況が分かり、Google Mapを開いて地名を打ち込めば立体地図が見え、あたかもクルマで旅行したような気分も味わえる。検索サービスを使えばレポータの書き込んだ記事がゴマンと読める。SNSを検索すれば記事に関する素人の感想もいやと言うほど読める。

 

いったいこれが、なんだろうか?どのように私の生活を豊かにするのだろうか?

 

著者西垣通は、本書を通じてウェブ2.0 (一般利用者参加・発信型の情報サービス)を疑問視しているようである。結論部分は第五章168~169ページの記述で要約できよう。少し長いが引用する。

「米国から到来したウェブ2.0によって、IT革命は明らかに新たな局面をむかえつつあります。

調書をいえば、ウェブ2.0は確かに一般ユーザがウェブ上での活動に参加する道をひらきました。生産消費活動への一般人の参加がIT革命の眼目とすれば、大きな一歩といえるかもしれません。しかし、これが直ちに皆でつくりあげる集合知を可能にし、民主的で平等な社会のベースとなる、というウェブ礼賛論には首をかしげる点が多々みうけられます。むしろウェブ情報検索が人々の思考能力を衰退させ、一過性的な主張に人々を同調させてしまう恐れもあることはすでに述べたとおりです。

。。。声高に語られるウェブ礼賛論のなかには、善意や平等主義というキャッチフレーズとはうらはらに、実は多様な次元で社会的格差をひろげる危険がひそんでいると考えられるのです。

まず言えるのは、中高年を押しのけようという排除意識・年齢差別意識です。「もはやゲイツ時代の世代は終わった、これからはペイジ/ブリン(Google創設者)世代の時代なんだ」とか「40代くらいになると経験をつむ分、保守的になり、新しいものを否定しがちになる。大事なのは若さと勢いなんだ」といった声が威勢よくひびいてきます(たとえば、梅田望夫『ウェブ進化論』)。

これは元気のない日本の若者へのエールととることもできるかもしれません。今や、フリータトニーととか言われる若者たちが街にあふれています。自信をうしなった彼らがもっているのは「若さ」ですから、ウェブ礼賛論が訴えかけるのは当然でしょう。「一緒にエスタブリッシュメントを倒せ」というわけです。

しかし、率直に言って、この呼びかけは欺瞞です。

なぜなら、ウェブ礼賛論を説く人々のほとんどは、一流大学を出ていたり、英語が堪能だったりする「エリート」だからです。受験競争を勝ち抜いてきた彼らは、カジュアルな服装をしていても心の底ではエリート意識が強く、「おちこぼれてきた普通の若者」など相手にするつもりもありません。そこにあるのは能力差別意識です。

Google社の創業者であるラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンはともに名門スタンフォード大学大学院計算機科学科の出身ですし、GoogleはBest and Brightest を尊重する会社です。つまり優秀な精鋭で固めようというわけです。こういうエリート志向はGoogleのみならず、ウェブ2.0関連の米国企業に共通しています。そして日本のウェブ礼賛論者たちの本音は、距離を得ている彼らのお仲間に入れてもらうこと、できればお裾分けにあずかることではないのでしょうか。

つまり、ウェブ礼賛論者たちは、中高年を排除するだけでなく、普通の若者たちを煽り立てながらも、裏では秘かに、新たなアメリカ流の格差を日本社会に持ち込もうとしているわけです。その議論からは純粋な幼さも感じられますが、隠された意図は、中高年のかわりに自分たちが権力を握ることだという気がしてなりません。

端的にいうと、ウェブ礼賛論の中身は(一部の技術的議論をのぞけば)まったく、古臭いものです。

情報や知識のとらえ方も時代遅れの印象を受けますが、とりわけ目につくのは、あまりに米国追従の価値観なのです。成熟や洗練よりも若さと変化を重んじ、アグレッシブに挑戦し、私有財産の拡大につながる実戦活動にいそしむ、というのは、昔ながらの米国フロンティア精神の一側面そのものと言ってよいでしょう。フロンティア精神にもとづく自由競争にもいいところはあるにせよ、それは「手つかずの財貨」を分け合う「分配問題」の場合であって、ゼロサムの「再割り当て問題」においては残酷な悲劇をうむ、というのはすでに第三章でのべたとおりです」 (以下略)

著者はさらにつづいて、このような志向の基盤をなすのは「古典的な進歩主義」であり、この進歩主義はいまやおそろしい自然破壊をもたらしている、とし、

「。。だからこそ、現在われわれは、人間が生態系のなかで共依存的に生きている存在であることを踏まえ、「情報」という概念を根本からとらえ直さなければならないのです。」

本書の末尾で、

「。。。と、述べながら、私の胸のなかには、ズキンとうずくものがあります。」と、本音を吐き出したあと、

「なぜなら、日本に古典的進歩主義を導入することに熱心だったのは、まさに私たち団塊世代だからです。

第二次世界大戦直後に生まれた団塊世代は、焦土と化した日本を立て直していく時期に成長しました。敗戦の反省もあって、私たちは古い日本を否定してきました。地縁血縁の共同体のくびきを裁ち切り、自立した近代的個人として、旧来の伝統を打破し、科学技術を振興して、新しい日本を築こうとしたわけです。私自身、コンピュータ研究者の道を選びました。そのとき、目標として燦然と輝いていたのは戦勝国アメリカだったのです。

したがって楽天的なウェブ礼賛論の主張を理解できないわけではありません。いや、わかりすぎて困るほどなのです。

だからこそ、ここでウェブ礼賛論に迎合してはならない、せっかくの情報検索技術を濫用してはならない、日本が迷い道へ入り込まないように声をあげなくてはならない、という気持ちが私のなかにあります。

いったい夢をもてる活路はどこにあるのでしょうか」

。。と問いかけて本書を締めている。

同世代の読者としてはいささかホロ苦い末尾であると同時に、拍子抜け、でもある。だいたいこの著者の嘆きはヨッポドの楽観論者でないかぎり、共有しているのではないか?「。。だからこそ、現在われわれは、人間が生態系のなかで共依存的に生きている存在であることを踏まえ、「情報」という概念を根本からとらえ直さなければならないのです。」「いったい夢をもてる活路はどこにあるのでしょうか」 この嘆きを結論ではなく、前提にしたうえで、さて、ウェブ社会とどう付き合うか、を述べる決意がないと、『ウェブ社会をどう生きるか』を書く意味がないのではないか?そこでは、著者は情報技術研究者ではなく、特定の価値観を選択した社会学者、政治学者として発言せざるを得なくなる。あるいは、社会活動家、政治家たらざるを得なくなる。

本書の第四章で述べているように二〇世紀半ばにベル研の若い技術者クロード・シャノンはベル研の技術誌 The Bell System Technical Journal (1948) に、A Mathematical Theory of Communication を発表した。西垣は情報理論というものを提案した、といっているが、これは正確には通信理論である。(この論文は和訳出版されておりそのタイトルは『通信の数学的理論』だ)。シャノンは、いま話題にしている、情報、には一切触れていない。 当時、シャノンが直面したのは電話網(当時通信網といえば電話網しかなかった、といってよい)を通して信号を流し、送信した信号を受信側でそのまま再生するにはどういう条件が必要か、を示したのである。帯域幅と信号対雑音比(S/N)が所与であり、源信号の帯域幅がFであれば、源信号を2Fの速度でサンプリングすれば、受信側で正確に再生できる、というのである。当時、データ伝送や検索サービスが日本でも盛んになりはじめたころであり、雑音の多い、電話網を通してどの程度の速度までデータを伝送できるか、その上限を理論的に示したともいえる。これは我々通信技術者にとってはひとつのおおきな宝である。。で、いいたいのは、シャノンは西垣等が話題にしたい、情報、には一切かかわっていないことだ。研究対象を物理的な電気信号の伝達、再生理論にしぼっているのだ。伝送の対象である意味内容(ケネディが狙撃されて死んだ、とか、ウォール街で大暴落が発生した、金鉱でストライキが発生したとか)と、かかわりない地点にシャノンは立っていた。これはひとつの希望ではないか。

著者は、情報は本当に伝わるのか、と問うているが、まず、

あなたにとって、情報とは何か?なにを必要としているのか?を尋ねるべきだろう。いや、それがわからないから、パソコンを開いているのだ、という人もいよう。そういうひとには、パソコンを開くのではなく、閉じなさい、というべきである。著者は第一章で「そもそも情報は伝わらない」、と述べている。事実は情報は伝わらない、のではなく、情報といわれているものの大部分は誰にも必要ないのである。ある個人にとって必要な情報は存在しないかほんのわずか、である。ある個人にとって必要な情報は他人にとっては情報ではなくナッシング、である。無、なのだ。だいいち、情報産業に属している人間たちが日々どれだけの情報を必要としているだろうか?運輸業者が必要な情報は単純化して言えば、貨物の宛先、道路標識、交通信号、地図情報だけでよい。政治学者が論文を書くのに必要なのは細分化された専門分野の他人が書いた諸論文であり、その諸論文をある学者は蚕が桑の葉を食べるように喰う。喰って思考し、その結果を論文として吐き出す。われわれは必要あればその成果物だけを味わえばよい。情報産業界でいわゆる<情報>と称されるものなぞ、なくてもやっていける、ということを西垣など情報学の専門家は教えなければならない。  ウェブ社会をどう生きるか、というのが書名であるが、ウェブ社会といえるものは存在しているのだろうか?存在していたとしても、それは社会全体のなかの狭い領域を締めている存在にしか過ぎず、新聞やTVなしでも生活に困らないと同様にあるいはそれ以上に無くてすむものである。

 

J.Lipnack & J.Stamps "Networking" が出版されたのは1982年(和訳は1984年『ネットワーキング』プレジデント社)のことである。これは米国内の草の根ネットワーキングの活動について書いた本である。ネットワーキングといえばまだ電話と郵便の時代であった。インターネットが草の根レベルで普及するのは1990年代のことだ。その時代、および、それ以前、新聞・雑誌などの刊行物をのぞけば、人間と人間が交換するのが情報のすべてであり、交換されるはメッセージであった。この時代のネットワーキングは規模が自動的に押さえられていたはずである。インターネットの時代になり、地域性(地理的な)とその規模に制約はなくなった。しかし無制限に拡大すれば地域SNSは機能しなくなることも自明、これをどのようにコントロールするかが次の問題となる。著者が最終章に紹介している、暗黙知、とか地域ネットワーク、地域プラットフォームなどの規模の限度と運用の原則を知りたい。

  

 リップスナック+スタンプス著 『ネットワーキング』

 

情報を速く、大量に得られることはそれほどよいことか?

明治の民権家・河野広中が東京を発って、土佐の立志社に向けて旅立った。立志社への加入を要請しに。結局、受け入れられず無念の帰途についたのだが。大阪経由で東京に戻るまで要する旅、片道に要した日数は約4ヶ月である。河野は四国に渡る船旅を除いて、すべて歩いたわけだ。いまなら無理をすれば日帰りも可能だろう。もちろん、江戸以前、それから明治のある時期まですべての旅行者は馬、か歩きだった。情報を得るだけ、交換するだけならネット経由でクリック数発で得られる現在の方が、効率はウン億倍になるはずだ。しかし歩きながら世間をこの眼で観察し、何千人のニッポンジンに触れ、東西裏表の生活を知ることは無駄ではなかったろう。情報への関心、高い効率は、人間への無関心により保証されている。ネットから得られる情報とは特定の偏見により整理・加工されたものである。整理加工しなければネットにはのらないし、検索にも掛からない。

ウェブ社会の中は狭い、外は広い。クロード・シャノンが今生きていればウェブ社会などに全く関心を示さないだろう。その昔(70年頃?)、反=人工知能学者でハイデガー研究者のヒュバート・ドレイファス教授が『コンピュータに何ができないか』を著し人工知能の権威ミンスキーなどに毒づいたが、西垣氏も『ウェブに何ができないか』という書名でウェブの限界を示せばよかった。そうでなければ、Webのハウツー本を書いてもらったほうが読者にはありがたい。

著者は「情報学的転回 informatic turn??」をしきりに口にするが、情報とはいまだに確たる概念をもっていない(in=form~おのれを形作るモノ、はすべて情報。。)、と私には見える。つまり、言語ほど社会に認知されていない、ウェブ社会は言語社会から一歩も抜け出ていない。すなわち<ウェブ社会>なんてものは、ない。


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