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「戦後天皇制は可能か」 渡辺京二あるいは北一輝の天皇制論 [Book_review]

渡辺京二評論集成 第一巻『日本近代の逆説』(葦書房、1999)に、「戦後天皇制は可能か」という渡辺京二の天皇制論が掲載されている。以下、本論文から、抜粋・引用する。<擁立された天皇>という北一輝が示したアイデアを、近代天皇制の秘密についての鋭い啓示としてこれに従いながら、渡辺自身の見解をコンパクトにまとめている。

 

本書、p215。

『(略)

私(渡辺京二)は、戦前の天皇制と今日の「天皇制」はまったく性格を異にするもので、それゆえにこそ昭和二十年の敗戦はひとつの革命だったのだと信じている。松本清張のように、国王の首がとばねば革命ではない(松本清張『北一輝論』)と信じている阿呆は、このさい論外である。われわれは敗戦と戦後改革とが、まぎれもない一個の革命だったことを、ひややかに承認すべきだと思う。むろんそれは、戦後の「革命家」たちの幻影のなかにあった革命ではなかった。しかしそれは、戦前の天皇制社会の構造を完全に変革したのである。

戦前的天皇制国家が敗戦革命によって消滅したことを承認する以上、戦後の天皇を、戦前における天皇がそうであったようなひとつの思想的原理として相手どろうとするのは、北一輝流にいえば、言葉に対するモノマニアックな固着にすぎない。北が『国体論及び純正社会主義』で主張したことのひとつは、古代的天皇、中世的天皇、明治国家における天皇は、それぞれ性格を異にする歴史的範疇だということであった。それが「天皇」という共通の呼称をもっているからといって、その歴史的性格を混同し、たとえば明治国家における天皇に古代的天皇の歴史的性格を付会するのは、理論的にも実践的にも許されぬ誤謬だというのが、二十三歳の北にとっての「科学的認識」だったのである。

だが、明治国家の天皇に古代的天皇の神権的性格を付会せしめたのは、明治国家の支配エリートの必要であったと同時に、いわゆる皇統連綿たる天皇家の歴史的継続性であった。今日、戦前的な天皇制の消滅を認めながらなお、思想的問題として天皇制を重要視せずにおかれぬ人たちは、おそらくこのような天皇家の歴史的継続性に、おそろしく根の深い民族的固疾を見出し(固疾の固は原文ではやまいだれが掛かる)、その亡霊を思想的敵としてあいてどらずにおかれぬのであろう。

(略)

だが。。。。そのような天皇制の歴史的継続性に関する思いこみは、ひとつの錯視の産物である。戦前日本国家における天皇は、この国の歴史のごく一時期にだけ存在した特異な歴史的現象で、それが体現しているかにみえた神秘性や魔術性は、戦前日本社会という特殊な歴史的民族社会の構造の関数にすぎなかった。そればかりではない。天皇家の歴史をよく見なおして見ると、それが千数百年の生命を誇りえているのは、いくつかの歴史的条件の偶然的に幸運な組み合わせに負う点が多いことが理解される。

(略)

彼(北一輝)は、天皇が明治国家において議会とならんで国家意志を代表する一機関たりえているのは、ただ維新革命によって国家の必要のために擁立されたからであり、天皇家の連綿たる伝統などとは論理的にはまったく無関係だと考えたのである。

つまり北がいわんとしたのは、近代日本国家の天皇は、それまで存在していた中世的天皇(さらにさかのぼれば古代的天皇)とは、少なくとも論理的には何の関係もない「国家」の被造物だということである。彼は、そんなものが維新革命によってつくり出されたのは、歴史の必然的一過程としての錯誤だとさえ考えていた。今日の眼で見れば、この北の直感はおそろしく正確だったことがわかる。徳川家をしりぞけて近代日本国家の神聖君主となった天皇は、じつはそれまでの全日本史の上にかつて存在したことがないような異様な天皇であった。それはこの国の歴史で、わずか八十年だけ存在を許された特異な現象にすぎなかった。いいかえればそのことは、戦前の天皇制国家がすでに生成と死滅のサイクルを了えた一回きりの特殊な歴史現象だといことを意味する。これは戦後の「天皇制」を論ずる場合、何をおいてもおさえられねばならぬ最重要の前提であって、この点をおさえていない議論は一切何をいっても無効だというふうに私には感じられる。

維新革命が創出した近代天皇制はすでにその歴史的使命を終えた。今日存在するものは、戦後市民社会の構造と矛盾せぬかぎりで残存せしめられているその遺物である。

(略)

王制は今日世界的規模で実質を失っているが、形式においても、それが21世紀を通じて生き残らねばならぬ理由は絶無だといっていい。

今日の天皇が千数百年の余栄を負うて発しているかにみえる残光についていえば、そういう歴史的継続性の光輝自体が、明治国家の設計者達が細心につくりあげたフィクションであったとすべきである。戦前の天皇に付与された歴史的光輝や儀飾は、彼らが古代的遺制に手を加えるか、あるいは大幅につけたすかしてつくりあげたものにすぎない。維新前の天皇の性格は、衰亡に瀕した古代専制君主の遺制プラスとるにたらぬ京都近傍の小封建領主であって、もし維新革命の指導者がうちすてておいたならば、革命のもたらす外光と外気に触れて、遠からず頽然と崩れ落つべき運命にあった。幕末にあって天皇は尊皇イデオロギーに浸潤された武士や神官や国学者をのぞく日本人大多数にとって、生存上いささかも意識せずにすませうるような存在でしかなかった。それを千数百年間、たとえ現実の支配権は失っても、たえず日本人の魂の奥底に生き続けて来たものであるかに定位しなおしたのは、まったく明治国家の設計者たちの意識的な労役にほかならない。

(略)

北の論理構成においては国家は国民と同義である。だから彼には、国民が革命のためひろいあげてやった天皇が、自分を神権的国王であるかに思いちがえて国民に対し支配者然と君臨しようとするのは、許しがたい反革命的な倒錯にさえ感じられた。国家がその必要から創設したものなら、国家はそれを「進化」に応じて自由に改廃することができる。

(略)

彼ら(明治国家の建設者)は新しい民族国家を共和国として構想する途を、先験的に封じられていた。なぜなら彼らは、封建領主の家臣としての三百年に近い記憶に縛られており、高貴でより正統な君主を探し出さずには、それまで臣属してきた君候への忠順の義務を解除するために案出された論理だという北一輝のみかたは、その主観的な意図についてはともかく、客観的な役割についてはおそろしく鋭い指摘といっていい。うがっていうならば、彼らが、かつて一度も臣属したことのない天皇の、譜代の忠臣であるかのような自己幻想を昂進させたのは、先祖代々奉公してきた君候を棄て去ったやましさの代償でさえあったかも知れない。

(略)

彼ら維新革命家が一国の国民を<臣>としてしか発想しえない武士階級であったことは、天皇を東洋的デスポットとして新生国家に君臨させた直接の原因だったといいうる。

(略)

彼らは、天皇のために革命をやったのではなく革命のために天皇を必要としたのだという自覚を、意識のかたすみにしっかりと残していた。彼らが天皇を「玉」と呼ぶことがあったのはそのためである。彼らは戦闘専業者の本能からして、何よりも軍事的に強力な国家を求めた。列強に併呑されぬ強国を建設することが、彼らのほとんど唯一の革命のエートスだった。しかも、知的に優秀であった証拠には、彼らは西欧列強の軍事的優越の秘密を瞬時に見ぬいた。彼らの発見によればそれは資本制であった。資本制にもとづく国民国家イークォル軍事的強国。この等式を見ぬいたと信じたとき彼らの進路は決まった。国家による資本制の創設、それが明治国家建設のかならずしも自覚せざる意味のすべてだった。

以下略」

                        原論文の初出は『伝統と近代』52号(昭和53年5月)

 

                                  

『国体論及び純正社会主義』は101年前の5月9日自費出版、5月14日発禁処分。

http://www.shoshi-shinsui.com/book-kita.htm 

 

関連記事:

東京裁判、北一輝:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-04

天皇問題
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-13


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