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白村江以後   石川九楊『書と日本人』    [Book_review]

 

663年、白村江の戦いは日本古代最大の対外戦。この戦いでヤマト政権の水軍は白村江で唐と新羅の連合軍と戦って壊滅的な敗北を喫し、多くの百済の亡命者とともに畿内政権の軍勢は敗退を余儀なくされた。現在までのところ、第二次大戦で連合国(米国)による占領、それに元寇を除くと、ニッポンが外国の占領下に入る危険が最も高かった敗戦である。いや、独立国としての<日本>が真に発生したのは、白村江の戦いに敗れたのち、というべきか。白村江以前、ニッポン列島には人びとは大陸・半島と自由に行き来していた。劣等の位置づけも大陸・半島の貿易出先機関のようなものであったらしい。この敗戦が、国家・社会・文化、そして対外観に大きく影響を与えた。この戦いでは、九州から東北地方におよぶ広い地域からの募兵をおこなっており、さらに万人単位の大規模な兵力の渡海を考えれば、それは日本史上、空前の大戦争であった。

 

白村江の戦いに敗れ、半島とそれにつらなる大陸との関係を絶たれたヤマト政権は、中国の政治制度をとりいれた律令国家として独立する。その独立国である新生ニッポンを挙げての文化学習運動が<写経>であった、という(石川、『書と日本人』)。

 

                                   

石川九楊によると、日本の文化の特徴は、

「。。西欧やイスラム世界、インドとの違いは東アジアの漢字・漢語・漢文・漢詩文明圏に属することが第一であり、次いで同じ東アジアの中国や朝鮮半島、越南(ベトナム)と異なるものがあるとすれば、その最大のものは女手=平仮名の誕生と、それによる和語、和文、和歌による文化的表現力の拡張にあります。日本文化史の特質は、漢語と和語、音と訓の二重複線性という点に尽きると言えます」

「奈良時代とりわけ天平時代を中心とする熱心な写経による識字運動の結果、『日本書紀』は漢文、『古事記』では漢文のみならず漢字による音写の書法で倭語を文字言語化することに成功し、『万葉集』はいわゆる『万葉仮名(漢字)』で、倭語の表記に成功しました。ちなみに万葉仮名自体は『万葉集』の成立以前からありましたが、『万葉集』に多く用いられたために万葉仮名と言われます。」

「言<はなしことば>と文<かきことば>との間には必ず落差がありますから、『万葉集』の歌があるからと言って、私たちが朗唱するような歌が無文字の倭にあったとは言い切れません。倭語は『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』の編纂を通じて書字・書記の現場で作られていったものです。『万葉集』成立以前には、そこに定着された言葉(以上)に、さまざまの語彙や文体、言<はなしことば>の構成法(前倭語)が多様、多彩に存在したと考えられます」

現在でも地名や動植物名など、身近なものであればあるほど各地方によってさまざまな語彙が見られるが、無文字時代の倭にはもっとたくさんの言い方があったはず。

「。。たとえば、漢語・雨<う>に対応する雨<あめ>と言っても、その降る季節や時間帯、さらにはその状態によって、現在でもなお、ハルサメ・サミダレ・コヌカアメ・ユウダチ・トオリアメ・シグレ・ムラサメ・ヒサメ・ミゾレと呼び分けられているほどですから、雨に対して<あめ>ではなく<たれ>や<れ>という和訓、和語が生まれた可能性も考えられます」

「当時はひとつのものに対して数多く語彙があったはずです。そのような多数の語彙のなかから、畿内周辺の知識人の使う語彙から厳選して、ひとつの言葉を定め、ひとつの書法(文体)を定めていくという作業が行われたのではないでしょうか」

すなわち。。。

「漢字を当て嵌める以前は、ひとつのものに対していろいろな名称がついていたが、それが整理され、そのなかからある種の言葉が選ばれて記され、記されたことによって固定する -- そのようにして生まれたのが倭語です。そしていったん書きとどめると、それが標準語のようにひとつの規準として、再度逆に普及し、仮名<かな>文字を使う層が識字階層の周辺に定着していくことになるのです。

この過程は、言<はなしことば>の倭語を文字で固定したというよりも漢字・漢語を媒介に「倭語をつくった」という方が近いと思う。。。文字は言葉を書きとどめる記号に終わるものではありません。逆に文字が発音を規定することもしばしばです」

「たとえば、「あめ」と書かれた音がもともと ame であったかどうかはわかりません。 woamie と発音されていた語を母音と子音の一体化した音節発音記号・音節文字しかない段階では「安免」と表記せざるをえず、はじめのうちは woamie と読んでいたが、やがて平仮名化によって「あめ」と表記されるようになり、「アメ」という発音が固定したとも考えられます。このように文字によって音韻が変化することも多く見られ、無文字段階に現在表記されているような発音をしていたとは考えられません」

「また、奈良時代には八母音であった日本語の発音が平安時代中期以降に五母音に転じたと言われていますが、正確には奈良時代には八母音で書きとどめられただけのことであり、おそらく実際に発音されていた母音はもっと多く、現在の中国語や朝鮮語(朝鮮半島および周辺地域で使用されている言語。大韓民国では韓国語という)に近いものであったと想像されます。五母音も同じで平安中期つまり平仮名=女手誕生以後は、五母音で書きとどめられるということにすぎません。そして書きとどめられることによって五母音化し、綴字発音に従って発音が変化していったのです。

もう少し想像をたくましくすると、朝鮮半島と日本の関係、特に朝鮮半島南部と北九州は同じ海をへだてた、否、海によって繋がれた隣り町に位置しています。したがって、それほど言葉が異なっていたとは考えにくい。にもかかわらず、現在の朝鮮語と日本語の発音は大きく異なっています。それはもともとの発音が違っていたのではありません。朝鮮半島では、長い間民衆は無文字の社会、政治を司る上層部だけが中国語を用いる、という言語形態が長く続きました。それに対して日本では平仮名が生まれ、それに応じて平仮名発音 -- それは母音と子音をひとまとめにした音節発音で、非常に平板な発音 -- が生まれました。これは、平安中期以降、女手(平仮名)が生まれ、女手に合わせて、女手発音化することで、生まれた日本語の発音であると考えられます。

女手つまり平仮名成立以前の『万葉集』の奈良時代の発音は現在よりも、はるかに多彩な母音と子音を持った発音だったことでしょう。その頃は朝鮮語や中国語に近い発音をしていたのではないかと、容易に想像がつきます。日本語の発音が八母音だったのではなく、八母音で書かれたにすぎません。やがて、女手=平仮名ができると五母音になります。この時、八母音から五母音に発音が変わったのではなく、「ンクウァ」や「ンクウェッ」などの発音が「か」や「け」と五母音の文字で書かれ始めたにすぎません。

いずれにせよ、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の時代に倭語が書かれ、固定されていくことになります。倭語とは、あくまで漢語を前提として、それとは異なる訓み(よみ)、「訓」として創られた言葉です。

したがって、「倭語」が古来からこの孤島にあった言葉であるとは、言いきれません。もともと孤島にあった言葉とは、前アイヌ語、前沖縄語のような書きとどめられることのなかった前倭語であったと考えればいいでしょう。」

「さて、それでは、これらの『古事記』や『日本書紀』や『万葉集』の記述者はだれでしょう。

当然漢字と漢語つまり当時の中国語に堪能であった人々ということになります。

(略)

それは、現在考えるような外国人(帰化人・渡来人)ではありません。大陸・半島そして孤島の人々が区別なく、いっしょになって新しい律令日本を築いていったのです。

このように、万葉集の時代には、中国大陸や朝鮮半島の人々を含め、あるいは彼らが中心になったといってもよいかも知れませんが、文字を駆使できる書き手が、中国の史書に倣い、文をつくっていきました。

(略)

『万葉集』は、日本でうたわれた歌、あるいはあちこちにあった歌をよせ集めたと言うよりも、あくまで「白村江の敗戦」によって大陸から新たに分離・独立した新生日本の国づくりの歌集である『万葉集』を編むために作られた歌からできていると考えるのが妥当だろうとおもいます。もしも、そうでないとするならば、もっと複雑で、発音も異なり、意味不明の歌が膨大に集まったはずです。」

以上、石川『書と日本人』(新潮文庫)p26~51から長い抜粋・引用を行った。日本語の起源、漢字と日本語の関係についてこれほど明快な解説をわたしは読んだことがない。なお、『日本書紀』の記述に当たったのは、日本の文物をまったく解しないおそらく大陸から渡ってきた中国人であろう、と大野晋は岩波文庫『日本書紀』解説に書いている。

石川『書と日本人』新潮文庫の解説で、中西進はつぎのように述べている:

朝鮮半島や越南と違って、「日本の政治支配・幕府は漢字仮名交じりの和風の書風を公用書体とし」ていると、石川九楊が述べていることに関して。。。

「(中国では)これほどに、漢字は支配言語なのである。だから、支配にたずさわった帝王ならびにその周辺の行政官はみんな漢字漢文に習熟し、公文書も漢字で書いた。漢字が男手であることもよくわかる。

ところで一方、中国には極端に少ないテニヲハが、朝鮮や日本には多い。そこで漢文を元にしてテニヲハを表す音標文字を発明した。まず朝鮮で吏読(りと、あるいは、イドウ)と呼ばれるものが発明され、日本はこれをまねて万葉仮名を作り、やがて仮名を完成させた。

そこで日本では日本語をそのまま書くことができるようになった。つまり漢文に独占されていた文字が、和文にも使えるという革命がおきた。

(略)

漢字と仮名を男手と女手というように書き手の区別から眺めてみると、漢字仮名交じり文を公用書体としたことは、支配への生活文化の侵犯であり、限りない男文化への女文化の侵入であった。石川氏はこのような文化が朝鮮にも越南にもないというのだ。

もし日本人がテニヲハを使わなければ、どういうことが起こるだろう。嫋々(じょうじょう)と流れる情緒などは到底望むべくもないだろう。理屈ばった日本人ばかりになる。理と情ということで区別すれば、情緒豊かな日本人の感情は表現できず、反対に論理的な思考法が発達したかもしれない。

またテニヲハとそれ以外を辞と詞によって考えたのが国語学者・時枝誠記(もとき)だったが、日本語はテニヲハつまり辞によってこそ、感情が表現されると考えられる。たとえば、「前」とだけいってもなにやら不明で「前が」か「前を」か「前へ」かによって「前」ということばが生かされる。

こう考えると日本が公用書体としても仮名まじりを許容せざるをえなかった事情がよくわかる。言語としての特性と書体は、鶏と卵の関係だったにちがいない。」

 

参考書:

網野善彦『日本社会の歴史 上』岩波新書

森公章『「白村江」以後』講談社選書メチエ

 

関連記事:

中井久夫『関与と観察』 みすず書房 2005年 書評 

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-11-09

 

 

    <明治にクレーしたこの人をミロ>

  空海を超える書の巨人・副島種臣  

『芸術新潮』1999/9 特集「明治維新を筆跡で読む: 志士たちの書」より

                               


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