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団藤重光 『法学の基礎』 [Law]

最高裁判事を務め、『死刑廃止論』で著名な団藤重光の『法学の基礎』を近くの古書店で安く入手。

久しぶりに基礎法学の本を読む。著者は参考書の博引旁証ではなくあたかも教室で諄々と説いて聴かせるような口調で自然に語りかける。、とはいえ、内容は専門家向けであり、速読というわけにはいかない。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4641027218

著者のいう法律、とは 動的なモノである。法律自体、人間が作成したものであり、時間とともに、社会の発展と共に変わる。社会無くして法律はなく、法律無くして社会もない、そういう相即の関係に、現在なってしまった。。

人間の行為は、環境で決定できる側面もある。犯罪現象と経済的条件の密接な関係など。。。しかし、著者は、人間の行為における主体的側面に着目することが多い。

p45「。。人間行動は、素質環境による必然的制約のもとに立ちながらも、また、多かれ少なかれ、主体的コントロールが可能なものであるといわなければならない。

(略)

決定論に対する批判ないし反省は、物理学や分子生物学のよういな自然科学の分野でも次第に広がりつつあるように見受けられる。

(例として、量子力学における不確定性原理、木村資生による分子進化中立説など、をあげたあと。。)

ただ、このような不確定性をみとめることは非決定論には違いないが、それだけでは、まだ人間の主体的な自由を認めることにはならない。自然科学の哲学的基礎付けを試みている批判的合理主義者ポパー(Karl Popper)が決定論を排斥するばかりでなく、このような単なる非決定論(不確定性理論)でもなお不十分だと主張して主体性を論じているのは、わたくし(団藤)としては心強い。(ポパーが)「友好的=敵対的な協働(friendly-hostile co-operation)」の意味での「間主体性 inter-subjectivity を説いているのも、わたくし(団藤)の共鳴を禁じ得ないところである」

隣接分野への目配りが十分なことは索引を覗けば分かる。

最高裁判事としての経験が生きているとおもわれるのは、司法権の独立を論じるくだりである。p202以降。

「。。司法の政治的中立性はきわめて困難な問題である。ひとは、法の解釈において、いかに客観的であろうと努めても、意識的・無意識的を問わず、なんらかの立場に立っていることを免れない。

(略)

新憲法のもとにおける司法権独立の特徴のひとつは、旧憲法では他の二権(立法、行政のこと:古井戸)に対する「司法権」の独立という見地が強かったのに対して、個々の「裁判官」の独立がいっそう強調されることになった点にあるとおもう。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)という規定がこれを示している。

(略)

客観的良心論者は、この良心を、単に「裁判官の良心」という以上に「裁判官として客観的にもつべき良心」と解するのであるが、いやしくも「良心」の名に値するものである以上は、一人一人の裁判官がみずからの内奥の声にきくのでなければならない。

(略)

裁判官は、普通の場合には、自己の本来の良心の声と自分の職務上の義務とのあいだになんら矛盾を感じないどころか、むしろ両者の積極的な一致を自覚することが多いであろう。しかし、問題がひとたび世界観、政治的立場などの根本的なものに触れるときは、この両極性が意識され、そのままではすまされないところ -- ばあいによっては裁判官の辞職 -- まで行くことがありうる。これは、もとをただせば、法そのものの動的性格に胚胎しているのである(注)」p204

(注)として著者は、死刑廃止論者である米国のある最高裁判事が1995年、良心の命ずるまま職を辞任し世間を驚かせた、という例をあげ、その出処進退の見事さに深い感銘を受けた、としている。その判事が著者の講演を聴いたあと、この二人は盟友となったそうだ。

著者は裁判官の独立を論じているが、おおよそ、あらゆる職業で、現在、妥当する考え方を示しているとも言える。

死刑制度:日本の司法システムに正義はあるか http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2010-05-31


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reiko

中井久夫は 私にとって 須賀敦子追悼パネルディスカッション、本居宣長論の解説などで とても印象深いお名前でした。団藤重光も つい昨日 話がでたところでした。12月に加藤周一の講演会があるのが駒場の900番教室。場所を聞いたら その昔 団藤重光の憲法論の授業のあった教室ということで 話題が広がったのでした。40年近く前の講義がそれほどみずみずしく記憶されているということは よほど深い人物だったのだなあ、と門外漢ながら思ったのでした。ブログ、難しすぎることも多いのですが 興味のもてるものはとても楽しく興味深く読ませていただいております。
by reiko (2006-11-12 11:58) 

古井戸

本居宣長論の解説とは、小林秀雄の作品の解説でしょうか?読んだことはありません。

精神医学者だから専門の論文(著作集あり)を読むべきだと思いますが(『分裂病と治療』、『精神科治療の覚書き』等は除き)。。みすず書房から出版されているエッセイ集しか読んだことがありません。加藤周一など(鴎外?)とおなじ、医者にして文人。加藤との違いを論じれば面白いですね。

最新刊エッセイ『樹をみつめて』では、やや長めの 戦争と平和についての観察、それに、神谷美恵子論、があります。じっくり読んで書評しようと思います。ハンセン病の隔離(この政策を主導した光田は神谷が師とあおぐひと。光田は戦後批判されることになった)中井はどう評価するのか、興味があります。
by 古井戸 (2006-11-13 10:21) 

NO NAME

「本居宣長論」は はるか昔大学の授業だったか宿題で読んだのでした。松本滋「本居宣長 思想と心理」 だったか・・ 私は本編より 解説に印象が残った記憶があるのです。中井久夫は 京阪神文化圏ということを言っていますね。須賀敦子も神谷美恵子も 中井久夫自身も その匂いの中にいて ある種のシンパシーがあるのでしょうか。加藤周一は東京文化人ですね。
by NO NAME (2006-11-14 08:01) 

古井戸

本居宣長は医者だし、長崎留学もした。ある種の普遍性志向もあったはず。
神谷美恵子と中井は 精神医学への関心が共通だったと思います(神谷はフーコーの著作を訳し、フーコーと交友があった)。文学への志向もあるでしょう(精神科医だからとうぜんのこと)。

精神医学は東洋で興ったのでしょうか?興り得たのでしょうか?
神谷も中井も京阪神。。というより和漢洋と時代をつきぬけているとおもいます。神谷さんの訳した自省録(マルクス・アウレリウス)、愛読書でした。

中井の神谷美恵子論を読んだが、神谷のさりげない仕草、とか細かいところにも注目している。ハンセン病隔離については深く追っていない。神谷にも葛藤があったはず。
by 古井戸 (2006-11-14 10:39) 

reiko

神谷美恵子が直接フーコーを知っていたと伺って、知らなかったものですから面白く思えて インターネットでいろいろ読んで、かなり楽しみました。
自省録は ギリシア語からの訳なのでしょうか。たしか中井久夫もギリシア現代語を勉強されたのでしたね。
印象に残るさりげない仕草。私は パネルディスカッションで加藤周一に水を注いだ浅田彰の仕草が とても印象的でした。今回フーコーの話題をインターネットで見てみて、浅田彰が言ったという「フーコーの実践」というものが 私が理解していたものとは違うのかなあ、などと思いました。
今 堀田善衛の「ラ・ロッシュフーコー伝説」を読んでいます。こちらのフーコー様も面白いです。
世の中面白いことは沢山あるのに、自分で若死にするなんて 惜しいなあ。。
by reiko (2006-11-15 13:17) 

古井戸

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622022176
神谷は↑を訳しています。
マルクスはロマ皇帝だからラテン語のはずですね。
ちくま学芸文庫からフーコー・コレクション1~6,最新刊でフーコー・ガイドブックなどが出ています。よくわかんないところが、かえって読む気にさせる、というコマッタちゃんブックたち。
by 古井戸 (2006-11-15 15:32) 

reiko

じゃ~~ん!ギリシャ語だそうです!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%9C%81%E9%8C%B2
by reiko (2006-11-15 22:47) 

古井戸

神谷さんはギリシャ語から訳したのですか?ラテン訳じゃなく?

http://www.kanshin.com/keyword/293861

特に語学はまさに驚異的といえる才能の持ち主で、フランス語、英語、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語を母国語である日本語と同様に使いこなし、他にも秀でた才能をいくつも持っていた方でした。戦後、GHQとの交渉のため彼女に通訳を頼みたいという文部省と、優秀な精神科医として必要だと譲らない彼女の勤務先である東大病院とで彼女の取り合いになったほど。

。。とあるから、ギリシャ語から訳したのか。
  手元に岩波文庫自省録、今見あたらないので、図書館で確認してみます。

英訳:
http://polylogos.org/philosophers/marcus_a.htm
by 古井戸 (2006-11-16 06:20) 

reiko

この紹介文は、ちょと・・・・。語学の才能がある人というのはとてもよく理解できますが、ラテン語を日本語と同じに使う、というところが乱暴すぎる、というかこの紹介文を書いた方の語学センスに問題があるのかも。。実は自省録を立ち読み(座って読んでも私には変りそうもなく・・)したのですが ギリシア語からか英語からの訳だか気になって。聖書などは 中国語から、ギリシャ語から、英語から、とても内容が違うのですよね。英語からの訳だとしたら ギリシア語を得意とするといわれている神谷美恵子が それでよしと思ったのか。
by reiko (2006-11-16 08:06) 

古井戸

神谷は(聖書と共に)ギリシャ語で自省録を読むのを日課とした、と、中井久夫『樹をみつめて』に書いてあります。自己規律の一部であったと。

英訳であれ、和訳であれ、何語であれ、表層的な言語を越えて、伝わる人には伝わるでしょう。バイブルもオリジナルはギリシャ語です。しかし、イエスがギリシャ語で語った分けじゃありません。イエスはガリラヤ方言を使って喋ったはず。ギリシャ語に<翻訳>されたのです。 翻訳で失せるほどのものは、もともと、われわれには縁もゆかりもないことども、と私は無視します。
by 古井戸 (2006-11-16 12:58) 

reiko

>自律規律の一部
うぅぅぅ~~~・・・・バタン!
善も知も気も 偏在するのでしょうか。。
それでも自分なりに 人生に真摯に生きていきたいものです。。
by reiko (2006-11-17 08:42) 

古井戸

reikoさんは自己規律の人、との噂を聞いたことがあります。
        偏在じゃなく、遍在を。
精神がとけてながれるものならば、わけてほしいとおもいます、ひとしずく。
by 古井戸 (2006-11-17 10:05) 

ZERO-ONE

>神谷は(聖書と共に)ギリシャ語で自省録を読むのを日課とした、と、
>中井久夫『樹をみつめて』に書いてあります。自己規律の一部で
>あったと。
旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語。キリストはアラム語で
話し、パウロはヘブライ語を解しギリシャ語で弁明したと言われています。
神谷先生のような方がいらっしゃることをいまさらながら知り恥じ入ります。
by ZERO-ONE (2007-04-26 14:44) 

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