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『ユダの福音書』 & 『私家版・ユダヤ文化論』 [history]

『ユダの福音書』は、イエス・キリストとユダの関係に新たな光を当てる重要な史料です。新約聖書ではユダは裏切り者として非難されていますが、新たに発見されたこの福音書には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれています。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml
## 『ユダの福音書』

本日の毎日新聞、「この人・この三冊」、は荒井献。
『ユダ』

最近のユダ研究の成果を採り入れた三冊を紹介している。

最近発見された問題作が上記引用の『ユダの福音書』。

ユダは福音書記者が、イエスを騙って官憲に売った、と記したためこれを利用して、ユダヤ民族を迫害してきた。神学者や教会もこの解釈に乗ってきた。

ところが↑の説明にあるとおり、売ったのではなく、それはイエスの意志を遂行したのだという。イエスの肉体を官憲に引き渡すことにより、イエスの霊魂を肉体から解放し、人間解放の元型たらしめた、と荒井献は説明する。 キリスト教成立後、最初最大の異端として教会から追放されたグノーシス派の立場からユダ観を180度逆転したのだ、と。

最近、ローマ法王がイスラム教をめぐってバカな発言をし、すぐに撤回、謝罪した。だれも撤回が本心から、とは思うまい。
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20060917AT2M1601N16092006.html

いつまで敵を作りたがるのだろうか?

それより、大昔の賢人物語を後生大事に一字一句、しかも、つごうのいいところだけを都合のいいように解釈して、それで人々に説教を垂れたり、モラルの基準としたがるのは人類の悪癖。いつになったらこんなバカを止めるのだろうか。

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↑の記事を書いて、毎日新聞書評ページをぱらり、とめくったら、なんと、
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書、の紹介。

サルトルは、ユダヤ人迫害には根拠がない、ユダヤ人とは反ユダヤ人主義者が幻想的に作り出したものだ、とまず紹介(当たり前のことである。こんなことをわざわざサルトルが言わなかければならないことがすでに欧州がイカレポンチになっていることの証明である)。

精神学者ラカンを引用「『ユダヤ人』というシニフィアン(能記:言語の表現=発音、言語の内容に対立するもの)を発見したことによってヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパはイマのような世界になったのである」
↑これを作業仮説として、内田は、最期の結論を構築する。

「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に『知性的』と呼んでいるのである」

評者鹿島茂がわかりやすく次のような内田の結論を紹介する。

##引用
では、そのユダヤにおいて標準的な思考傾向はなにか?
それはレヴィナスが『ヨブ記』のなかに発見した、ユダヤ的アナクロニズム(時間錯誤)である。すなわち、人間は神の世界創造に遅れてきたため、自分が犯しもしない罪についてすでに有責である、ゆえにすべての責任を引き受けるように成熟していかなければならないという時間の倒立した思考法である。非ユダヤ人は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を置くが、ユダヤ人は「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間を遡った起点に置くのだ。

非ユダヤ人にとってこうしたアナクロニズムとはどうしても思いつかない超絶思考法であった。そして、そのユダヤ人の知性の効率的な使い方に非ユダヤ人は嫉妬し、激しい欲望を感じ、「その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意」を抱くに至ったのだ。

構造主義を完全に自家薬籠中のものにした著者だけに可能な独創的ユダヤ人論」
###以上、書評の末尾。

生まれながら道徳的債務をしょわされるのが不幸なのか、生まれたら金を儲けろ、正しく振る舞えという俗世間道徳にまみれるのが不幸なのか。


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コメント 9

すずめ

♪人間は神の世界創造に遅れてきたため、自分が犯しもしない罪についてすでに有責である
ここでの 「人間」=「自分」 が よくわからない(*^_^*)
キリスト教徒が そのように振舞っている、つまり 個的にその難題を引き取っている ってことかな?
by すずめ (2006-09-18 12:42) 

古井戸

有責である(自然権がある、義務がある。。等々)、と、サムワンが定めていた。サムワンが神だろうと、自然だろうと、契約であろうと。。どうでもいいんだけど。。。

強迫神経症ですな。
わたしのように早く、集団で、惚ければいいわけだ。昔のことなど覚えちゃいない。

>キリスト教徒が そのように振舞っている、つまり 個的にその難題を引き取っている ってことかな?

個的ではありえないでしょう。集団自慰行為です、もとい、集団示威行動。圧力団体です。
by 古井戸 (2006-09-18 13:21) 

まきまき

上記の方に便乗。
わかったようなつもりで読んでると、見当違いの所に行っちゃうかもなので、
物知りの古井戸さん教えてください。

「自分が犯しもしない罪」って具体的にはどう定義されているんですか?
by まきまき (2006-09-19 00:40) 

古井戸

> 「自分が犯しもしない罪」って具体的にはどう定義されているんですか?

私はこれだけの記述で満足しています。レビナスが発見、というくらいだからかなりコマシャクレタ解読をしたのだとおもいます。ヨブ記、あるいはレビナスの著作をお読み下さい。わかったら教えてください。 内田樹のこのホンにもあるいは記述があるかも知れません。このホン、私もそのうち買って読む予定です。
by 古井戸 (2006-09-19 02:19) 

すずめ

「自分が犯しもしない罪」 って、
みんなが 「あんたが犯した罪」 って言うから
「そうか、オレは罪を犯したんだ」と知らされる「罪」ではないだろうか?
麻原某の味方するワケじゃないけれど、
別役実の戯曲では しばしば そうゆ~ことになっている。
by すずめ (2006-09-19 20:58) 

古井戸

夕べ買ってきて最終章だけ読んだ。かなり面白かった。レヴィナス(私は読んだことがない)の意見を受け売りしているのかどうだかよくわからないが、↑の犯した罪。。云々については、レヴィナスが。。
「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です」と言っている。つまり、人間は不正を為したがゆえに有責であるのではない、と(内田)。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである」

この章でわかりにくいのは 有責、と言う言葉だ。自動車事故は起こした運転手の責任である。これは事実のハナシ。 人間は誰でも自動車事故を起こす存在である、ゆえに、(可能性として)人間はすべて有責なのである。こう云っているのだろうか?よくわからん。

アナクロニズム(時間の転倒)といっているけども、これは、論理の転倒に置き換えられるだろう(すくなくともユダヤの歴史とかユダヤ教などに何の関心もないわたしにとっては)。↑のハナシも、親鸞の悪人正機とどうちがうの?というくらいにそっくりだと思えるが。

以下、引用:p227
「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦し、その善行ゆえに人間達を永遠の幼児として扱うものであると思いみなしているすべての人々にとって、無神論は当然の選択である」
罪なき人が苦しみのうちで孤独であり、自分がこの世界に残されたただ一人の人間であると感じるとしたら「それはおのれの双肩に神のすべての責任を感じるためである」だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすのである。
(略)
神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援抜きで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不在である」という当の事実が「神の遍在」を証明する。
引用終わり

↑「。。を証明する」という言葉は了解できない。「。。の条件となっている」ならわかる。つまり、必要条件をのべているだけで十分条件ではない。

(書き足りないがここで中断)
by 古井戸 (2006-09-20 13:51) 

すずめ

「神の遍在」は 「世界の中心にいるのは悪人」ってことになるのだね。
by すずめ (2006-09-21 21:10) 

古井戸

> 「神の遍在」は 「世界の中心にいるのは悪人」ってことになるのだね。

意味不明だよ。わかりやすく云ってくれ。わたしゃ専門家でも教師でもないんだから。物知りでもない。

この本やっと読み終わった。共感するところとなぜ、そんなに入れ込むの?というところが沸々。帯に養老猛司が、
「これは単なるユダヤ論ではない。自己と世界、両者の理解を深める本である」
書いている。
本当は単なるユダヤ論、でもある。なぜ「ただ」でないかは、ユダヤ人が現実に経済力、政治力、文化力を世界で誇っているからにすぎない。どの民族だって(日本民族でも)、独自の意識、認識、他の文化に通訳不可能なものをもっている。現実的にその民族が世界に与える影響がネグリジブルだからそんなものを一々分析したりしないだけだ。ところがユダヤ民族はそうでなかった。ひとつは、 ユダヤ民族に限らず民族には国家と同じように実体はない。幻想だ。(たとえば、私=古井戸だって手続を取ればユダヤ民族になれる。民族は人種ではない)。サルトルあるいはマルクスが言ったように「ユダヤ人は非ユダヤ人=欧州人が作ったのだ」。その限り、ユダヤの解放は欧州人=非ユダヤ人の解放でもある。内田樹はこのかぎりではサルトルやマルクスに反対しているわけではない。しかし、サルトルなどの解釈では見えないものがある、と言っている。それが ユダヤ文化に独自のアナクロニズム(罪などの時間逆転解釈)という。ここでいう、アナクロは我々が通常使う 時代錯誤ね!という軽蔑的な含意はない。このアナクロというユダヤ解釈は、ユダヤ人哲学者(1995年に死んだ)レヴィナスのものであるらしい。そしてレヴィナスは内田樹の哲学上の師でもあるらしい。(そのことがこの本をわかりにくくしている。つまり内田の解釈か、レヴィナスの解釈の受け売りなのかわからないところがある。きのうちくま新書の「レヴィナス入門」を買い、該当箇所を見たら同じことを言っている) そのアナクロがユダヤ独自のもの、というだけならどうということはない。日本や中国、マレイ、印度。。。あちこちに独自の時間観念がある。それは言語にピタリ対応しているのであり、対応する観念が異文化間になければ、翻訳通訳が不可能になり、アバウトな理解で我慢するしかない。その、アバウトな部分を内田は、レヴィナスを援用して論じている(そこを手を変え品を変えこの本でのべているので、是非、読んで欲しい。わたしもできれば、自分の言葉で、美味い比喩で述べてみたいのだがまだソコまで煮詰まっていない。この記事を引用だらけにしてもしょうがない)。

一つ問題なのは、レヴィナスの解釈というのはいわゆるユダヤ人の間(つまり非ユダヤ人の間デモだが)でどの程度、受け容れられているのか?ということ。しかも、その解釈は、非ユダヤ人が羨望(嫉妬)するものなのだという。これがわからないところ。

時間をおいて、もう一回くらい通読してみるかな。

養老の言葉を、現実の世界は多様である(もう一回世界がビッグバンからやりなおされたとして、ユダヤ教ライクな世界観=宗教が起こるのか?その程度の普遍てきなもんであるのか?という疑問)というふうに解釈するのなら、たしかにソコソコの価値はある本だ。しかしもんだいは、現実のユダヤ人問題、パレスチナ問題にはまったく、こういう知識だけでは解決にならない。もともと、政治問題を解決することをめざして内田もこの本を書いたのではない。
by 古井戸 (2006-09-22 12:33) 

すずめ

悪人正機の意味は十分には汲み尽くされてはいない、と加藤周一氏は「グレアムグリーンとカトリシズムの一面」を書き始めている。グレアムグリーンは小説に「キリスト者の社会の中心には、罪人がいる」とペギーの言葉を引用したが、この言葉が我々をどこまで導くのかも、十分にはわかっていないとしている。
「相手の幸福を望む気持ちは、そのまま愛情ではない」とも加藤氏は書かれている。すなわち「彼女を必要としない度合いに応じて、彼女に対する義務を意識する」。その解消には自発的な愛が必要だが、努力ではどうにもならないもの、であるらしい。
それが不可能であるとき、絶望が生まれ、それは彼の善意そのものから発し、必然的である。それを加藤師氏は 歎異抄第三条の「自力作善の意味」とは言わないが、「キリスト者の社会の中心には罪人がいる」の意味と捕らえている。
「絶望とは不可能な目的を自己に課した男が支払わなければならない代価だ」と。《男》とは 取り上げている小説の主人公が男だからであることによる。
 余談だが、この悪人正機説は親鸞さんではなく 法然上人の言葉であろう。浄土真宗(一向宗)が爆発的に広まったのは 彼が危険思想である「一念義」を説いたからではないか?その犯罪性に気づいて 彼は京都に戻り、再び関東に戻ることはなくなったのであろう。
by すずめ (2006-09-23 09:10) 

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