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諭吉と長沼事件  明治14年政変など  (福沢、その10) [福澤諭吉]


                 
                   印旛沼@2006/2月撮影。



福澤諭吉全集9-18巻を図書館から借りた。(昭和35年刊行)
社説その他時事新報からの論説抜粋である。時事新報記事は当時、凡て無署名であったから、当時の事情を知る社員、石河らの記憶に頼って編集されたものである。

月報に 長沼事件のことを、当事者が書いている。
長沼部落(現在成田市、印旛沼の近く)では江戸期まで、農民達は田畑や沼からの農漁業収入により暮らしており、ちゃんと藩に納税もしていた。ところが、明治政府になりこの入会地が国有地として没収されたのである(近隣地域の謀略、もあったらしい)。この部落の人民が苦しみ、当時、福沢の『学問のすすめ』を読んで感激した住民のひとりが東京の福沢に会いに行き窮状を訴えた。福沢は同情し、八方手を尽くして、この農民達を救ったのである。

福沢は直後に脳溢血で倒れ、うわごとで、
  ナ、ナ、
と、声を出したそうだ。
  先生!長沼のことですか?
と問いかけると、うなずいた、という。

http://nandemo.city.narita.chiba.jp/category/1-chiiki/1-2toyosumi/1-2-38%20naga-kinenhi.html

(長沼事件については、後で補足したい)

####

坂野(ばんの)潤治の『明治とデモクラシー』(岩波新書)が明治14年政変の福沢(派)の関与についてコメントしている。p72
(当時、憲法起草に様々な案が入り乱れ、福沢は元々イギリス風の議院内閣制を支持、これがタマタマ大隈一派と一致したから、福沢=大隈がつるんでいる、と反対側の伊藤らににらまれていた。結果、大隈一派は政治主流から追放された)。

坂野は、福沢と大隈の誤算について、次のように言っている:
「(福沢派の誤算)
。。福沢の「民情一新」は、ヨーロッパのような専制と急進の対立を日本では避けようとして、イギリス流の二大政党の導入を提唱したものであった。その福沢が、わずか二年半前まで「君主専政家」として知られていた大隈重信と接近したのは、功を焦ったためか、または自派の隆盛に眼がくらんだものとしか、いいようがない。福沢の頼るべきは14年1月の当初の会談相手で、政府内では「英国人の如く相成り、その勢いを以て帰朝」とまで言われた井上馨の方だったのである。

(大隈重信の誤算)
福沢が井上馨を捨てて大隈を選んだことが誤算であったように、にわか仕立ての議院内閣制論者になったことは、大隈重信にとっても、大きな誤算であった。彼は反国会派の黒田(清隆)からも国会論者の井上馨からも、機会主義者として反発されたのである。。。

黒田は大隈の裏切りに激怒した。。。

井上馨も、大隈との絶縁を伊藤に提言している。。。

井上馨の(伊藤への)手紙の3日後、黒田の手紙の翌日から、天皇の東北・北海道巡幸が始まる。大隈がそれに随行して、二ヶ月にわたって東京を離れたのは、信じられないほどの愚行だったのである。」

しかし、坂野はこうもいっているp79。
(イギリス流の大隈・福沢派に対抗して、ドイツプロイセン憲法を模範として井上毅がはたらきかけ、井上馨まで、はっきり、イギリス流を放棄するむね、伊藤に進言した。。。)

「イギリスの立憲君主は名ばかりで、慣習的にはアメリカの共和制に近いから日本への導入には適さないというのである。これはこれで相当の卓見であろう」

ここから、大隈の参議罷免、民権派の挫折から、大正デモクラシーへの流れをくっきり描いている。実力派学者のなせるわざ。

##
以下、昨日書いたコメントから切り貼り:
坂野潤治「明治デモクラシー」岩波新書、は北一輝が主題ではないが、福沢、兆民、枝盛の三巨頭?に加えて、美濃部達吉、それに 北一輝、ついでに吉野作造、が実に簡潔に描かれていますよ。北一輝の扱いは、この種の本としては異例じゃなかろうか?

なにしろ、「はじめに」の書き出しが。。。、
「明治維新が民主主義に向けての準備を欠いた、早産した近代革命であることを指摘したのは、日本のファシストとして有名な北一輝である。。。

この北一輝の指摘は、歴史的事実とピタリと一致する。。。」

それに、最終章のおわりちかくp212
「。。この名著(国体論及び純正社会主義)が自費出版であり、大作すぎ、発売禁止になったことは、おそらく不人気の主因ではなかったであろう。主因は時期が早すぎたことにあったように思われる。次節で検討する吉野作造が登場して人気を集める第一次大戦前後に北のこの著書が刊行されていれば、青年将校の代わりに大学生がこの名著を廻し読みしたのではなかろうか。」
##

立花隆が さいきん、「天皇と東大」を書いたが、東大法学者美濃部達吉や穂積八束らの憲法論をわがものとし、それを揶揄し、深化した 北一輝をどのように扱っているのだろうか? 北一輝にページを割いていないようでは立花の本、読むに値せず、といっておこう。本は分厚けりゃいいってもんじゃない。 三題噺、じゃないが、 天皇、 東大(学者)、 とくれば、まっさきに 北一輝、になるハズなのである。(この本立ち読みしたが、東京大学、帝国大学、東京帝国大学、とこの大学は呼称を都度変えたが立花の本、すべて 東大、で通している。いいんか?)

最近刊行された「国体論及び純正社会主義」。みすず版全集よりだいぶ読みやすくなっている。
http://www.shoshi-shinsui.com/book-kita.htm


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たにけん

ご心配なく。立花本上巻に北一輝について書かれておりまする。
by たにけん (2006-04-30 16:29) 

古井戸

どもども。

いま、図書館にリクエスト中、なんですが。。
なかなか順番が回ってきません。
今夜、立ち読みしてきます。

そういえば、右翼思想家 橘孝三郎が立花の遠縁だった。
by 古井戸 (2006-04-30 17:26) 

古井戸

天皇と東大。北一輝を中心に立ち読みしてきたが。。。やっぱり立花はノンフィクション作家やな、と言う感じです(でしかない)。天皇論をやりたいのなら、なんで 東大、をくっつけるのだろうか?魂胆が不明。 北一輝の天皇論も解説を的確に加えているがたった一ページ、でチョン。226事件のところで、岸信介にだらだらとインタビュしている。魔王、としての北一輝だけを大きく取り上げているところは立花好みなんだろうが。 

同じ棚に並んでいた坂野潤治+田原総一朗の新刊対談本
「大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!」
タイトルはけばけばしいが(田原好み)、坂野が美濃部達吉+北一輝に一章を当てて語っている(対談だから、内容は良いが 全体的にスカ本)。そのなかで、北一輝のなんたるかを最初に的確に把握したのは 久野収だ、と坂野は述べている(岩波新書「日本の思想」1956年)。しかも、その当時北一輝の主著はまだ出版されていなかった。「シナ革命外史」だけは読めたので、その本から推測して、「国体論及び純正社会主義」の内容の見当をつけた、というのだ。さすがに哲学者の読みは眼光紙.背に徹す、として坂野が賞賛していた。久野ファンのわたしゃ、ほくほくしながら、ムスメと家路についたのでありました。
でも、この本ペライよ。この程度なら、ネットで只でよませてくれにゃあ、小学館殿。1500円+税金。
by 古井戸 (2006-04-30 21:19) 

すずめ

岸信介(革新官僚として)は 北一輝の影響を受けたのでは、と文春一月号に書いている。計画経済主義者としての岸は 戦後も一貫していたと。
by すずめ (2006-05-04 11:56) 

古井戸

あるかも、ですね。
マッカーサー(かれの部下)が影響を受けたというハナシもあるぐらいだから。
進駐軍の行った改革と、北一輝の改革案、との比較、どこぞのサイトなり著書でやっていないかしら。

立花隆の著書、ずばり、『天皇制』とすればよかったとおもいますね。余計なところに制約が出てきている気がする。

昨日、立花隆、『滅びゆく国家』新刊、を買ってきた。日経hp記事の寄せ集めらしい。

最新記事(東京裁判 私記)も読んでもらえばありがたい。
by 古井戸 (2006-05-04 16:03) 

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