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脱亜論について    福沢諭吉の真実、その5 [福澤諭吉]

脱亜論についての平山さんのコメントだけ抜き書きする。重要だと思ったから。

> 『私は「脱亜論」を軽視などしておりません。この論説は石河によって『続福沢全集』(1933年)に採録されたものですが、それは石河にしてはめずらしく良い仕事であったと考えております。』

現在の研究者である平山さんは軽視していないが、当時の読者は軽視ないし無視したということですね。

平山さんは著書でp203にこう書いています。
「。。発表当時の「脱亜論」が何らかの反響を呼んだかといえば、そんなことは全くなかったようである。それは日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった」

「。。当時の人々はそんな論説があったことすら知らなかったのである。そこには福沢諭吉の署名はなかったし、内容も当時の感覚からいえばありきたりであったからである。掲載された時事新報も翌朝には魚の包み紙か何かとして使われて、そのまま捨て去られたのであろう。そうして48年4ヶ月の歳月が流れたのであった」

福沢自身は 誰にも注目されないことを望んで無署名社説を、書いたわけではなかろう。
石河が、危機意識を高め、戦意昂揚させたのは 福沢に忠実にそのあとを嗣いだと、なぜいえないのだろうか?

脱亜論が発表されたのが1885年。48年4ヶ月待つ必要はなく、石河が福沢の意をくんで、国民の危機感を喚起したのではないのですか? 

だから、戦意を昂揚させた論文を石河が「乱造」した、と平山さんが表現するのは 石河に(そして間接的には福沢に)対する「名誉毀損」だとおもいます。石河にとっては、脱亜論思想を発展的に継承しただけだから。

そして、石河の「乱造」を 福沢は不承不承黙認したのではなく、でかした!と賛意をもってみていた、と私は見ます。その反動が、勝利の後の 「ソクインの情」演説になったと。

こういう見方に対する 平山さんのお考えを伺いたい。

追記:
平山さんが
<それは日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった>
と言われるのは、脱亜論の内容自体が、福沢以外の誰かによって説かれていて、読者にとって目新しくもない、ということだろうか? そういった議論があちこちの社説や論説によっても一般的であり国民の間に普及していたということだろうか? その意識は、福沢の以前の著作が寄与したのかそれとも他の誰かの著作?

しかし、幸か不幸か 読者の誰も 脱亜論に着目しなかった。再度確認したいが脱亜論の内容は当時の国民の常識であったのか?なにによってそういうことが言えるのか?

ということは、福沢の意識、と、国民の<脱亜>意識に、差はなかった。
再度、国民に普及していた脱亜意識は 昔からあったのか?それとも福沢が広めたのか?

旨く表現できないが、要は、日清戦争の前後の日本にワープしたとして、

国民(都市、田舎)
知識人
福沢
石河
政治家
その他

等の意識がどのように変化したかしなかったかを知りたいのである。福沢に着目すれば福沢自身がどう考えていたのか、ということと、福沢は<国民や石河等がなにを考えている>と、考えていたのかと言うことも含めてである。こういうことは、全集(の、社説。私は読んでいないが)を読むだけでは自動的に分かるわけではない。当時誰も知らなかった 社説の執筆者、が あとから明らかになったからと言って、その判明した知識は 遡って、当時の状況の説明には適用できないはずである。


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平山 洋

福沢が「脱亜論」その他で高めようとした危機意識とは、清国に対する意識ではなく、西欧に対して警戒心を高めよ、ということなのです。

1885年の東アジアではベトナムの帰属をめぐっての清仏戦争と、朝鮮の巨文島を英国が占領する、という事態が起きていました。日本が侵略を受けないために、西洋的文明化と国防力の増強が必要だ、と主張しているのです。

遠山茂樹さんらは、1945年へといたる一直線のストーリーを先に作って、それに当てはまるように史料を並べているにすぎないのです。だから、1885年の「脱亜論」も、1894年の「日本臣民の覚悟」を準備する、あらかじめ9年後を見越した論説としてのみ扱われてしまうのです。

現実の「脱亜論」は、それより前の政治状況に基づいて書かれているのです。1884年暮れには朝鮮で甲申政変が失敗に終わり、それを見ていたイギリスは朝鮮も支配下に入れられるのではないか、と機会をうかがっていたのです。だから、日本は西欧から、朝鮮や清国と同じタイプの国として攻撃を受けないように、よりいっそうの西洋文明化が必要だ、といっているわけです。

それが1885年の福沢が抱いていた危機意識の本質であり、同様の論説は「脱亜論」より前にも、また後にも書かれています。
by 平山 洋 (2006-04-18 15:19) 

古井戸

あらゆる歴史は、現在史、とある歴史家はいっています。
遠山だろうとだれだろう、と、明治維新を眺めるとき、現在の歴史から眺めるのですよ。 福沢がそうであったように。 

> だから、日本は西欧から、朝鮮や清国と同じタイプの国として攻撃を受けないように、よりいっそうの西洋文明化が必要だ、といっているわけです。

西洋文明化、というのは頭のハナシです。
政治は足下のハナシです。この2つは同時に考えないとならない、くらいは考えたでしょう。
すなわち、朝鮮+清国にどう対処するか、を考えることが、<西欧化>を学んだ有識人の、現実的適用問題としてあったわけです。
by 古井戸 (2006-04-19 03:39) 

平山 洋

福沢が「脱亜論」を書いたとき、彼は1885年3月までの歴史しか知らないのですよ。つまり、西欧がアジアを侵略している、という認識にたっていて、さて、どのようにすれば日本を守ることができるだろうか、というのが関心の全てです。

西洋からの火の粉が日本にも飛んできそうなので、清国・朝鮮のことまで気が回らなくなってきた、と「脱亜論」そのものに書いてあるではないですか。

福沢は、薩英戦争(1863年)や下関戦争(1864年)を実際に経験しているのです。戦ったのは日本ではなくて薩摩や長州ではないか、というのは内向きの話で、世界からは、日本がイギリス・フランス・アメリカ・オランダと交戦したように見えたはずです。

それから20年しかたっていない時点で、「脱亜論」は書かれているのです。

第二次世界大戦の交戦国とは、じつはそれより80年前に戦っていたのでした。その時向こうが本気でなくて本当によかった、と思っています。
by 平山 洋 (2006-04-20 10:47) 

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