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福沢諭吉の真実 その4 平山さんのコメントに対するコメント [福澤諭吉]

福沢諭吉の真実、その2 に平山さんから長文のコメントが付けられている。
私の知らない事実も多く含まれており、遠山茂樹「福沢諭吉」を再読してみようと言う気になった。さいわい、遠山の著書は その判断の根拠となる福沢の著作を引用したり、出典を明示しているので何が無効となっているかはかなり容易に分かる仕組みになっている。

昨晩書いた、「石河幹明 勝利者」論は 平川氏に対する機略的視点を提出したものだが、この見方はふざけて書いているのではない。平川氏の視点を私なりに取り入れれば、こういう見方が妥当なところだろう、といったつもり。

さて、平川氏のコメントについて私の意見をのべてみよう。平川氏のコメントを抜粋することを考えたが、このブログのコメントは、掲示板ではないので、目に付きにくい位置にある。わたしとしては掲載位置による差をもうけたくないので、この記事には平川さんのコメントを全文掲載することにする。私のコメントはそれに続ける。

注意: 
以下 『 』 でくくるのが平川氏のコメントであり、それに必要があるばあい私がコメントを付けています。 平川さんから頂いたコメントは一字一句として、省略していません。途中でわたしのコメントを割り込ませているだけです。私のコメントの開始点に●終了点に■を付ける。

###
『だいぶ問題点が絞られてきましたね。古井戸さんのお考えについては私としても誤解があり、そうだったのか、と教わることがありました。

以下、問題が指摘されている点について、番号順にお答えします。

1 社説は誰の意見か、について。

法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。創刊初日(1882年3月1日)「本紙発兌之趣旨」には、「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば」とあります。つまり、大体は中上川彦次郎主筆を中心とする論説委員が書き、まれに福沢も立案する、ということです。創刊後の単行本が、「福沢立案、中上川筆記」として出されているのと一致します。単行本化されなかった論説については、『時事新報』の意見、としかいえないのです。』

●この 誰の意見か、という意味は、 当時の読者が、誰の意見と考えたか、と言う意味です。石河であれ福沢であれ、それを意識して、時事新報の顔である 社説にソコソコの意気込みで書いたはず。平山氏の意見でおかしいと思われるのは。。。

<法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。>

 <法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です>

ここで、<あえていえば>、というのは、文字通り 敢えて、が過ぎるのではないか? 主筆とは個人であり 法人とは 会社である。 会社(法人)、あえていえば、個人 というのは全くおかしい考えである。 法人、と個人はそもそも対立するものなのであから。 わたしが前回よりコメントしているのはここである。 社説とは無署名記事である。昨日言ったこととと、今日行ったことがガラリと変わるということでいいのだろうか?当時は良かったのか?たとえば、ニューヨークタイムズは選挙前にNYTは 民主党支持!と明確に社説で宣言する。社説には法人の顔しか無く Mr A, Mr.B という具体的執筆者の顔は見えない。 『あえていえば主筆の意見です』 といわれるが、個人の意見を抑えても 社の方針に背いた意見は書けない、というのが実情ではないのか。だから、主筆個人の意見が社の方針に従えない場合は、退社した(万朝報、が日露戦争賛成に回ったのに対し主筆堺?らが退社した)。脱亜論がある日発表され、その翌日それに反するようなことが社説と書かれれば熱心な読者は眼を白黒させるだろう。福沢が言論機関の社主としてそれを十分承知しているのであれば、石河が執筆したとしても、おのれの意見でもある、ということにしなければ読者は納得しない。だから、問題は、読者に与える影響、と、その影響を福沢が承知していた、それを承知で石河に書かせた。こういう見方が成り立つのではないか、ということである。わたしが、福沢全集に石河執筆であっても社説を掲載したのは100%正しいことではなくても、全面的に非のある行為ともおもわない所以だ。■

『2 社説欄掲載後単行本化された著作について
法人の意見としての社説と個人の思想としての単行本の関係が未整理であったのは事実で、日清戦争後に特別の欄が作られたのもそのためなのでしょう。』

●上記のように、社説 と 単独著書は 当然意見に対する 規制が異なる。単独著書なら自由に意見を述べてかまわないが、社説なら 過去との連続性、つまり読者に対して過去の意見と異なる意見を述べる場合は<法人>意見の連続性に対する説明責任が発生すると考える(まともな執筆者ならば、そう考えるだろう)。■

『6 時事新報と福沢の関係について
社説はあくまで社の意見とされていました。これは新聞紙印行条例(1871年)への措置で、福沢に直接累が及ばないようにするためでした。なにしろ「新聞紙若くは雑誌・雑報において人を教唆して罪を犯さしめたる者は、犯す者と同罪」とありましたから。では社説そのものが問題となったときはどうか、ですが、その場合は奥付に最初に書いてある人物が責任者とされました。』

●これは自由にものを言う事ができる、と言う新聞社の価値です。法人の破産は個人に累を及ぼさない。■

『7 社説は福沢の意見かどうか

百何十年も前の新聞社説が誰の意見として受け取られていたか、分かるはずもないでしょう。『時事新報』は硬派の大新聞であり、論説委員は常時三名程度在籍していました。日刊紙なのですから編集会議は毎日開かれ、論説担当のほか、事件(社会面)担当、広告担当、財務担当らが、自分たちの意見を闘わせてゆくうちに、全体の論調が決まっていったのです。ちなみに、福沢が編集会議に出席していたという記録はないようです。』

●最初の1行は奇異に聞こえます。 時事新報は名のある新聞だから 社説は誰の、と特定できなくても、複数主筆の誰かが ある社説に強く反対である、とは少なくとも思わないのでは?もし大きく意見が割れれば、退社する、しかない。その程度の担保があるから新聞が選ばれたのではないですか?それがなければ 社説は (かなり知識のあるが意見は一致しない可能性の多い)「読者投書欄」と同じになってしまいます。時事新報が xxを支持する、と言う場合、社説がそれを支持することであり、主筆の某は社の方針を支持しているが、別の主筆某はこれに真っ向反対、あるいは異なった意見をもつ、しかも、執筆者は明示されないというのでは、<社の方針>というのでは読者は混乱する■

『8 ケネディの演説と時事新報の社説は違いますよ
誰がスピーチライターであったにせよ、ケネディは一度はその原稿を読み、その様子がテレビで放送されることを知っていました。おそらく演説草稿には彼自身の承認サインも入っていたことでしょう。しかし、社説にはそのような印はいっさいないのです。現行版全集には、台湾で武装蜂起した原住民を抹殺せよ、と主張した「台湾の騒動」(1896年)が入っていますが、原稿も福沢の関与を示す書簡も何も残っていないのです。福沢に掲載の事前承認を取っていたか、それは分かりません。あくまで私の推測ですが、その日の社説を読んだ福沢はびっくり仰天したのではないか、と考えています。
拙著98頁以降にありますように、私は1892年春頃に、福沢は時事新報の運営から手を引いたと推測しています。当時の感覚では58歳というのはもう老人だったのです。』

●たしかに、スピーチライタと社説の主筆では条件が異なるが、自分で考えたことを何でも書けるというわけにはいかない、というところを言ったつもり。ケネディのスピーチライタなら過去の全発言集をチェックしなければならない(そうでなければ政敵から足下をすくわれる)し、党の方針と矛盾してはならない。こういうことは 社説の主筆にもある程度言えるのではないかと言ったつもり。

福沢がびっくししたかどうかは、知らないが、度が過ぎれば打ち消さなければ 時事新報意見として読者が受け取るのは当然。もんだいは 私が何度も述べるように、読者がそううけとることを福沢は承知しているかどうかです。わたしは読者への影響を知っていたし、多少行き過ぎだな、とおもっても黙認にたる意見しか載せなかった、と考えています。こういう可能性は否定できないでしょう?

先回りして言えば、したがって石河が 全集に自分執筆の論文を福沢執筆として掲載したのは誤りであり、すべての社説を発表当時のまま無署名として掲載すれば良かったのです。それが、熱心な読者が受け取る印象の凡てです。だれがどの社説を書いたのか?福沢はどれを書いたのか、は新報以外の著作や発言から類推するしかありません。これは現在の朝日新聞やニューヨークタイムズと同じことです。

そうするとどうなるか? 社説の意見というのは石河や福沢の共同意見として読者は受け取るでしょう。(個別に見れば主筆間で意見の相違はあったとしても)■

『9 遠山さんや服部さんは、彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか?

『続全集』(1933年)には、「付記」という注意書きが入っているのです(拙著75頁参照)。この「付記」は、現行版『全集』(1958~1964年)では削除されています。したがって、60年代以降に研究を開始した人々が誤解したことは、しかたがなかったと思います。

しかし、遠山・服部さんは「付記」のある『続全集』を使いながら、当然のようにそれらを福沢そのものと見なしています。が、そうすることは果たしてフェアなことなのででしょうか。福沢自身は一度たりとも自分の書いた論説であるとも、執筆を命じたとも証言していない膨大な量の文章を素材として使うことについて。』

●まずこの点。
<彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか>

遠山を弁護する立場にはないが(わたしのような一般人が弁護してもどうということもないし)、おそらく 時事新報の社説は 全主筆間の意見の総意、として書かれている、あるいは、少なくとも福沢以外が書いたとしても、福沢が追認できる無いよう、と解釈しているのではないでしょうか?つまり読者がそう受け取っていると言うことでしょう。■

『福沢が署名著作で述べていることは疑わなければ気のすまない人々にかぎって、なぜか石河の言うことは無条件で信じてしまうのです。安川寿之輔氏がそうでした。私はそうしたありかたを「石河への盲目的愛」と名づけました。』

●石河とか福沢とか個人の名前は、安川さんも当時の読者もわからなかったのであり、そういった選択的な読み方をされても、文句は言えないですね。社説では。それがいやなら純然たる個人誌とするか、あるいは、執筆者同士の シバリ、を強めるしかありません。■

『福沢の署名著作(演説・社説集)に『修業立志編』(1898年4月)というのがあります。そこには42編が収められていますが、そのうち9編を石河は大正版『福沢全集』の「時事論集」に採録していません。ところが、同じ「時事論集」には、石河が執筆した、と明記しているものが14編も含まれているのです(全体で224編)。
もし福沢と石河の意見が同じなら、石河はそのような操作をする必要などなかったでしょう。違うからこそ、『福沢諭吉伝』(1932年)の立論に不都合だと判断して、福沢直筆の論説を全集から排除したのです。』

●ここからハナシは全集版になっていきます。全集とか自伝というのは戦いが済んだ後のハナシです。日清戦争が終わった後。日清戦争が終わった直後、で一旦、時計を止めてみましょう。

その時点ではわたしが昨日述べたように、石河の偽造も罪状もなにもありません。石河は主筆として意見をのべただけです。

平川さんは、石河が全集や自伝で福沢の誤った姿を伝えたことをもって石河を非難されているようだが、日清戦争直後の時点(これを時間Tとします)で、石河になにか罪がありますか? これをお聞きしたい。

つぎに、もしこの時点で石河が無罪であるならば、後から全集や自伝でおこなった作為、ゆえに時間T以前に遡って、石河の行動を非難できない、これが昨日の私の論点です。そして、時間T以前にすべては終わっているのです=日清戦争の勝利、とその後の政策。この直後に、諭吉は死に、<全集>の時代が始まります。それは第2幕です。しかし、全集における石河の作為を明らかにしても、すでに事が終わっている 石河や福沢の言論による国民への影響は変えようがありません。リアルタイムで国民が時事新報からどんな影響を受けたか、を測定することがすべてだとおもいます。これは平山さんはわからない、とおっしゃっているが、当時の知識人らの残した書き物からたとえば、脱亜論(社説)がどんな影響を国民に与えたか、与えなかったか、日清戦争前後の社説から国民や政府にどう影響を受けたか、は何か資料があるのではないでしょうか?再度言うと、そのリアルタイムの影響こそが時局評論家としての福沢の力量(の大きさ、小ささ)を示すのではないでしょうか?石河の<偽造>は福沢死後の第2幕(事の終わった後)であり、時代に果たした役割には無関係です(むろん、その後の福沢研究には影響したのだろうが)■

『11 福沢と石河のアジア観は違います

古井戸さんが私の本に嫌悪感を抱かれたのは、何だか福沢の悪い部分を石河に擦り付けているように受け取られたからですね。「ヒトラー自身のユダヤ人抹殺命令は残存していないから、それはヒムラー親衛隊長官の犯罪だ」というような。いわゆる歴史修正主義の主張では、そうするのが常套手段です。

しかし、ヒトラーにはユダヤ人問題の最終的解決に関する演説が多数残されているのに、福沢には領土拡大を要求する演説も、中国人を蔑視する演説も残っていないのです。
逆に、日清戦争後の国内に蔓延した中国人蔑視を厳しく戒める演説(全集19巻736頁)と、その演説をもとにしたらしい社説「シナ人親しむべし」(16巻286頁)という、その時期としては非常にまれな推定カテゴリーⅠ(直筆)の社説があるのです。
私が、都合の悪い社説を偽者、都合のいいものを本物とすることで、福沢の弁護をしているのだとしたら、文体判定として、「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(いずれも1885年発表)が、直筆とされている理由の説明がつかないでしょう。』

●その演説は、遠山「福沢諭吉」の最終章 「評価の問題点」で冒頭に引用しているところです。福沢は揺れていたのだと思いますよ。すでに事が終わった後でこういう演説をしなければならないのだから。しかし平川さんの軽視される「脱亜論」はだれも見向きもしなかったとはいえ(ただし、これに注意しない読者はいったい社説など読んでいたのか?という疑問もわきますね)、注意すべき論文だとおもいます。(ネットでも読めるから読者の皆さんは読まれればよいと思います。最後にURLを添付します) 私の見方は、戦前、すくなくとも 戦争阻止には動かなかった福沢(わたしはそれどころでは済まないとおもっているが、ここでは抑えて)に対する自身の反省があったと見ます。その程度の、一貫性のなさ?で驚いてはならないとおもいます。■

『これらは、「日本臣民の覚悟」「日清の戦争は文野の戦争なり」(いずれも1894年発表)のアジア観とはまったく違います。1885年の社説で批判されているのは清国と朝鮮国の政府であって、その人民ではありません。あれでは人民がかわいそうだ、と言っているのです。1894年のものには、残念ながら中国や朝鮮の人々を低く見る要素が含まれているように感ぜられます。』

●これこそ福沢の重要な一面と私は考えています。原則を述べた後と「しかりといえども」で続く時局論です。(これは遠山がいっているし、あちこちの福沢論で指摘されている)

学問のすすめ、からしてそうではありませんか。 そして、脱亜論も。人間は原則平等である、しかし、世界の実情をみてみよ、独立心なく、勤労のこころなき国民は他国から侵略の憂き目にあう、これをよく心得て、よく勉学に励め、と言っています。 これは「侵略の勧め」ではもちろんありませんが「侵略はあってはならぬ」という意見でもありません。もちろん、現時点でこれを非難してもしようがありません。「侵略」は19世紀末にあって当然のごとくおこなわれていたのだから。■

『つまり、福沢と石河には、日本人の民族性についての評価に違いがあるのです。石河は日本民族の優越性を疑うことなく主張するのに、福沢の署名論説で、日本人がとりわけ優秀だ、などというものを見たことがありません。地上の人間など大差が無く、文明について目を開かれた指導者さえ出れば、どこででも近代化は可能だ、というのが彼の考えでした。楠公権助論などに見られる日本史軽視の態度は、時の民族派を憤激させました。』

●これは、学問のすすめ、や、その発展である脱亜論、の枠組みだと思いますね。引き写すのも面倒だが、要は、
  勉強しなさいよ!あなた、勉強しないと、勉強する人と格差ができますよ!
ここまでが学問のすすめ、脱亜論はこれを時局へ適用したもの。
   あなたは勉強しない人。わたしは見捨てます!
こういう論理ですね、手っ取り早く言えば(脱亜論)。これをやむを得ないとみるか、勤勉な国がそうでない国を侵略してよいことはない、と悟るかの差です。しかしそのような悟りをその当時求めても仕様がない、と言う限りにおいてしか福沢は評価できない、すなわち、その分、過去の人、ということです。(私の見方)。■

『それに、そもそも1885年のものは、アジアから手を引くべきだ、という主張なのに対して、1894年のものは、どんどん行け、というちょうど逆のベクトルをもっているではないですか。』

●10年も経過していますよ。その間に戦争があった。連続性を求めるのは「福沢的」でないとおもいますが。福沢は、バランスの人です。■

『12 石河の社説を読んでいたかどうか、について。

もちろん読んでいた、と考えます。「俺の考えとはちょいと違うが、戦争に勝つためには仕方がない」と思ったでしょう。黙認あたりが適当かかもしれません。とはいえ、似た考えならその人の思想になるのですか?』

●その人の思想とはちっとも言っていません。読者に対してどういう影響を与えたか、ですよ。問題は。読者は井田進也さんのようにテキスト分析に通じていません。これは石河の意見、これは福沢先生の意見、などと区別はしないでしょう。福沢ほどの人なら、時事新報委社説を誰が書こうと、国民がどういう風に受け取るかは計算していたはずと思います。石河の(あるいは他の主筆が書いた)社説を俺の意見ではない、とほったらかすことができたか?私は疑問です。これが大きな分かれ目ですね。

A 時事新報社説は 石河の 意見が強く反映している
B 時事新報社説は 福沢の 意見が強く反映している
C その他

わたしはBだとおもっている、ということです。脱亜論がさほど注目されなかったのも平川さんがいわれるとおり、過去の著作の要約だったからにしか過ぎないでしょう。

ははあ、これは石河が書いたな。。と推定しながらいる読者が当時何人いたでしょうか?
昨晩私が書いたように、かりに石河が書いた論説のみが戦意を昂揚させた、というのならそれを阻止しえなかった福沢は同意したとしかおもえません。 

遠山はこのあたりを 福沢の諦観、と表現しています。p197■

『私なら、「日本臣民の覚悟」や「日清の戦争は文野の戦争なり」と、同じ時期の『国民新聞』(蘇峰主宰)の社説の類似性に目が行きます。当時時事新報社と国民新聞社は銀座でワンブロックしか離れていないところに建っていました。蘇峰と同年代の石河は、蘇峰に密かにライバル心を燃やしていたのではないか、と私は考えています。』

●それは当時の流れに棹さした、ということですね。そのとき、リアルタイムで福沢が上記の演説をしたのなら俄然、福沢の評価は異なっていたでしょうね。タイミング、です。問題は。
戦に勝てば、何でも言えます。■

『最後に再び遠山茂樹氏の『福沢諭吉』について

この著作はかなり詳細に読んだつもりですが、「書簡や著作」から多くの論拠を得ているというのは本当でしょうか。戦争に勝って喜んだ山口宛書簡については承知しています。時期は下関条約会議より前ですから、まだ台湾の領有は決まっていません。

また、文中の「シナ・朝鮮も我文明の中に包羅せんとす」の「我文明」は、直前の「西洋流の文明」を受けていると解釈しております。

皮肉ではなく、福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作とは具体的にどれなのか、知りたいのです。』

●遠山の著作は文中に引用は参考文献を細かく掲げてあるので有名と思います(わずらわしいほど)。ただし、個別の文章ではなく大まかな史観がどこから来たのかはわたしにはもちろん、わからない。つごうよく引用を配置すれば簡単に私程度の読者ならだませるでしょうし、そうまでしてだましたいならどうぞ、というのが私の読み方。しかし、脱亜論などよんで福沢が書いたとしてまったく違和感がないし、これに福沢の考えが集約されていると、私は思っています。その意味で名論文です。

<福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作>

政治家ではないのだから(政治家であっても、陸奥なども 拡大と受け取られないように用心せよ、と言っている。本心は拡大であり、その口実を求めていた)そういう書き物はないでしょう(わたしがいってもしょうがないが)。政治家がそのように用心深いのにそれより用心深いはずの福沢が領土拡大をいうわけもないでしょう。しかし、脱亜論が真筆なら、政府の拡大方針に棹さすというより、国民にそう思わせたのは彼の功績(どの程度寄与したのかは分からないが)ではないでしょうか。石河は、その意をていして戦意昂揚をはかったのであり、福沢がそれを黙認したことにわたしは矛盾を感じません。 石河が乱造した戦意昂揚社説を福沢は読んだはずであり、これにどう対応したのか、が知りたいところです。黙認したのか、ソレは行き過ぎだとか言ったのか。

すくなくともこれを正義の戦い(かりに石河論説であったとしても、これを読んだ国民は脱亜論の帰結と読むのが当然ではあるまいか)、としているのであれば、戦前の国民を煽ったと結論するのに無理がありますか?

戦が終わった後、火消しに当たるのは福沢として当然の行動と、私はおもっています。■

以上 

ご多忙にもかかわらず、素人然のわたしの意見に詳細なコメントをいただいた平川さんには心より感謝します。ことに私の飛び跳ねた発言に眼をつむって頂き、恐縮です。おかげで、遠山の著書、あるいは関連著作を 批判的な目あるいは立体的な眼で読んでみようという気になりました。

此を読んでおられる読者の方々も、せっかくの機会だからコメントをいただければ幸いに存じます。

脱亜論
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平山 洋

古井戸さんは、まさに日清戦争のその時点で、石河が福沢を裏切るようなことをしていたかどうか、ということを問題にしていたのですね。私がまったくどうでもよいと考えていることがらについて。

日清戦争当時の石河は、『時事新報』を売る、という目的によく貢献したと思います。その点で、福沢の期待によく応えたし、福沢は石河を見直したでしょう。

私が石河を批判しているのは、何度もいうように、石河が自分で書いた社説を、『福沢全集』に入れているからです。当時は福沢のものと見なされていたから収めてよい、などとはいえない、ということです。

それに、そもそも社説自体が福沢の意見などとは見なされていなかった、と私は思っております。日清戦争時の福沢の意見はきちんと福沢諭吉名で出されているのです。

石河が福沢を「騙った」のは『福沢全集』(1926年)と『福沢諭吉伝』(1932年)、『続福沢全集』(1933年)編纂に際してであって、それ以前ではありません。私の推測では1892年以降石河は有力な論説委員になりますが、その時点で彼が福沢を騙って悪いことをしでかしたというわけでは、もちろんありません。ただ、思想界における福沢の後継者などとはとてもいえない、というただそれだけのことです。

想像力を働かせて、冷静に考えてください。1885年3月に「脱亜論」という社説が、『時事新報』に掲載される。読者はそれを飯でも食いながら読み、終わってからくずかごに捨てる。1894年7月に「日清の戦争は文野の戦争なり」という社説が出て、9年後の読者はそれをあとで魚の包み紙に使う。そのとき読者が、「福沢先生は、9年前には「脱亜論」を書いたはずだが、今度は戦争をけしかけるのか、それは矛盾しているのではないか、いや、むしろその考えには連続性がある」などと考えるかどうか。

どちらの社説も誰のものとも意識されずに読まれ、捨てられ、忘れられたのではないか、ということなのです。
by 平山 洋 (2006-04-18 11:09) 

古井戸

> 古井戸さんは、まさに日清戦争のその時点で、石河が福沢を裏切るようなことをしていたかどうか、ということを問題にしていたのですね。私がまったくどうでもよいと考えていることがらについて。

●いえ、全く。
私もどうでもよいとおもっています。
平山さんが 戦意昂揚社説をあたかも 石河の悪事のように書いておられるとかんじたから判断したのです。そうでないと「乱造」という言葉は出てきませんからね。 
騙ったのは 全集編纂にあたったからであり、石河の戦意昂揚演説によってではない、とおっしゃるなら私と同意見です。

> 私が石河を批判しているのは、何度もいうように、石河が自分で書いた社説を、『福沢全集』に入れているからです。当時は福沢のものと見なされていたから収めてよい、などとはいえない、ということです。

●福沢全集編纂時のハナシですね。それはそのとおりでしょう。
しかし、下記の意見にも関係しますが、 時事新報社説を 福沢の意見と異なるものと 読者が認識しているとは私は思っていません。
したがって、「日清の戦争は文野の戦争なり」という一文が仮に石河によって書かれたとしても、筆者=石河、掲載=新報として載せなければ福沢の全体像はつかめないと思います。 いったい、この社説に福沢が同意したのか反対したのか、それは読者が判断すればいいでしょう。当時の読者が判断したように。

>それに、そもそも社説自体が福沢の意見などとは見なされていなかった、と私は思っております。日清戦争時の福沢の意見はきちんと福沢諭吉名で出されているのです。

● 時事新報社説が福沢の意見とみなされていなかったという証拠はあるのでしょうか? 誰の意見だと思っていたのでしょうか?石河の? あるいは誰か分からないけども誰かが書いているのだろう、とおもっていたのでしょうか?
それが事実なら、ちょっと、わたしにとっては、ニュースですね。

石河が福沢を騙ったかどうかはわたしにはどうでもいいことですが、これは興味あります。 というのは、騙ったかどうかは全集のハナシであり、↑のはなしはリアルタイムのハナシだから。社説を読んでどう判断するかどう世論が形成されたかは重要と思うが、全集を読むのは、賞味期限を終わった後のことだから重要度が下がる、と考える故。

>石河が福沢を「騙った」のは『福沢全集』(1926年)と『福沢諭吉伝』(1932年)、『続福沢全集』(1933年)編纂に際してであって、それ以前ではありません。私の推測では1892年以降石河は有力な論説委員になりますが、その時点で彼が福沢を騙って悪いことをしでかしたというわけでは、もちろんありません。ただ、思想界における福沢の後継者などとはとてもいえない、というただそれだけのことです。

それは騙ろうと騙るまいといえることだとおもいます。

> 想像力を働かせて、冷静に考えてください。1885年3月に「脱亜論」という社説が、『時事新報』に掲載される。読者はそれを飯でも食いながら読み、終わってからくずかごに捨てる。1894年7月に「日清の戦争は文野の戦争なり」という社説が出て、9年後の読者はそれをあとで魚の包み紙に使う。そのとき読者が、「福沢先生は、9年前には「脱亜論」を書いたはずだが、今度は戦争をけしかけるのか、それは矛盾しているのではないか、いや、むしろその考えには連続性がある」などと考えるかどうか。

おおいに、連続性があると考えるのではないでしょうか?それに、9年は大昔でしょう、当時。思想がまるっきり変わってもよいくらいの長さです。それより、読みもせずに捨てられたという脱亜論なら、連続性もなにもないとおもいますが。脱亜論は、当時の潮流を述べただけで、誰も読まなかったのでしょう?脱亜論の論調は当時のパターンであったと平山さんも述べておられます。ということは、福沢は思潮に棹さしただけです。脱亜論は捨てられたが、文野論は読まれたのでしょうか?捨てるのなら両方とも捨てたと思いますが。


> どちらの社説も誰のものとも意識されずに読まれ、捨てられ、忘れられたのではないか、ということなのです。

時代に与えた影響はない、ということですね。時代のほうが先を行っていた。
平山さんの主張は、時事新報の社説には誰も注意しなかった、ということ。
であれば、それを誰が書いたかなど読み手にとってはそれ以上にどうでもいいことになります。 であれば、全集収録に当たって、騙ったところで研究者や著作権問題には影響するでしょうが、 福沢は当時の世論形成にどのような影響を与えたか、の答えは、何も与えなかった、ということでしょうか?それでは石河の乱造したといわれる戦意昂揚社説も 読まれず、誰が書いたかも意識されなかった。。。その事実のほうが、騙った騙らない、というより遙かに重要だと思います。
by 古井戸 (2006-04-18 16:55) 

平山 洋

私が石河を批判したのは、自分が書いた社説を、あたかも福沢のものであるかのようにその全集に収め、かつそれらの無署名論説を駆使して、日清戦争以後の福沢伝を描いている、ということによります。

福沢の思想家としての絶頂期は、ほぼ1873年なのですよ。そのときの福沢の影響度が、その後まで同じように維持されていた、と考えるのが間違いなのです。

1882年に『時事新報』が創刊されたとき、福沢は、すでに相当過去の人、1893年に『実業論』が出たあとは、すっかり過去の人、でした。

言論界で、福沢だけが活動していたわけではないのです。1890年代には、「天保の老人、明治の青年」というキャッチフレーズを引っさげて、福沢より30歳近くも若い徳富蘇峰がデビューします。「福沢翁なんて今さら」というのが、当時の空気だったのです。

日清戦争前には福沢自身もすっかり隠居モードになり、長期間の旅行や箱根での湯治などで、日々を過ごすようになります。新聞など若い者に任せておけばよい、自分は人生訓や回想録でも書こう、というのが1893年ころの福沢の心境であった、と思います。

戦争が始まります。彼は、清国と戦うこと自体は正しいことだと信じていたので、実業界の人々とはかって義捐金運動を準備します。しかし、国が戦時国債を発行するというので、その話は立ち消えとなってしまいました。

毎日毎日戦争関係の社説が紙面を飾ります。戦争中なのでそれは当然のことです。ほとんどが石河ら論説委員の文章で、時には度をこした清国蔑視の論調のものも掲載されます。

福沢は、これではちょっと、と思い、敵愾心を煽るような国内世論をなだめようとします。戦争中に福沢が関与したと証明できる社説はそうした内容のものです(拙著104頁以降を参照)。

戦争中、福沢にはしなければならないことがありました。その一つは、前年に運営の開始された北里研究所を軌道に乗せることです。もう一つは、慶應に創設された大学部のカリキュラムを充実させることです。またさらにもう一つは、人生訓『福翁百話』を書くことです。

もちろん、戦争に関心がなかったわけではありません。『時事新報』はもちろん、他紙も読んでいたことでしょう。95年1月には戦闘もほぼ終結し、喜びの手紙を友人の山口広江に出します。

戦争後、還暦のお祝いも済んで、彼はいよいよ人生のまとめをしようとします。『自伝』執筆や、『全集』の編纂、婦人論の総仕上げなどです。

現在残っている日清戦争ころから後の無署名論説群は、石河が自分のした仕事を後世に残すため、大正版と昭和版の正続全集に収めたものであって、福沢自身ととくには関係のないものが大部分なのです。

以上、想像も交えて福沢の晩年を描きました。長文にはしたくなかったのですが、そうなってしまいました。
by 平山 洋 (2006-04-20 14:58) 

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