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眼の変容あるいは行く川の 藤原新也 [Art]

                                     

藤原新也。朝日新聞4/3の夕刊、「時流自論」

藤原は、コミカミノルタやコニカフィルムが市場から撤退し、カメラと言えばデジタルが当たり前の時代になったことから自論を展開する。藤原は懸念されたデジタルの品質も最近アナログ同等あるいはそれ以上に向上した、とこの変化を受け入れている。これ意外であったぞよ。

つけくわえて、言うに。。
「。。誤解を恐れずに言えば 人間の眼、そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えないこともない。

「ユーザの眼自体がこの30年のうちにデジタル化し、見た目に派手な映像を求め始めた。。

「たとえば、木の葉一つを撮っても、その絵の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも、造花の花のように派手な色としてフィルムに定着される、このことは、ユーザ(プロを含め)の視覚も自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着させ、それを「きれい」と感じるデジタル的感性になっていることを示す
 そのように現代人の視覚が階調の間引きと彩度の飽和点を求めるようになったのは、環境の変化に負うところが大きいのではないかと、私(藤原)は考えている

「パソコンモニターは互いの競争原理から近年ますます彩度とコントラスト比を高める傾向にあり、モニター上で画像を作り込まねばならないプロの写真家は標準色(記憶色)が再現できないという困った問題にも直面する

「この彩度やコントラストの刺激による人間の眼の感性の変化は10年の歳月を必要としない。おそるべきことに、わずか10秒間で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ

(彩度の異なる風景を交互に見せると 彩度を欠いた方を物足りないと見てしまうことを述べた後)
「。。仮にそのような色価の刺激が10年間続いたとするなら、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろうことは容易に想像がつく。

「縦縞の飼育小屋のなかで育った猫は横縞が見えなくなるという衝撃的な実験があるが、どうやら2000年代の人類は、その猫の生態に似てきているようだ」

##

写真家藤原は、写真(技術)と、写真を見る脳の相互変容、最終的に人間というものが、いかに移ろいやすきものか、を述べている。石器時代の人間にカラー写真を見せたとしよう。一瞬、彼らは驚くだろうが、その驚愕は1時間も持続せず、あたかも想定内、としてたちまち石器人の脳に織り込まれることは確実だ。人間の歴史とは、新しき物を、あったり前のこと、に転換する器用さ、(と、同時に、それに伴って必ず、従来システムを無自覚に廃棄する、という悲惨さ)の歴史であり、人間はそういう馴化の仕組みを内蔵している。だから、言語も、倫理も、思想も、容易に生まれ、そして、容易に死ぬ。

音、や映像や、言語が同じ枠組みで語ることができることは、もちろん、ファシズムに瞬時に順応し「天皇ヘーカ万歳~」と叫んでいた、父ちゃんカアチャンが、一晩明ければ、「民主主義万歳~」と叫んで何のワダカマリも持たない、というずるずるべったり、あるいは、こらえ性のなさが、実証してきたし、いまも眼前に繰り広げられている融通無碍、無責任のアンポンタン風景がこれを示している。

眼も、耳も、脳も、感覚も、道徳も、時々刻々変わる、つまり、人間は日々再定義される。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく 止 とゞ まる事なし。

人間の何が、変わり、なにが、変わらないのか?変わらぬのは二足歩行、新陳代謝、繁殖の構造だけ、ということか?

http://www.kahitsukan.or.jp/img/fuj_01.jpg
http://mbs.jp/portraits/portraits/2004/2004_10/s_fujiwara.html

追記:4/6
。。。とはいうものの、。。歳を食らうと、体力、精神力おちるわ、白髪は出てくるは、思考はワンパターンになるわ、記憶力めっきし衰えて暗証番号もど忘れするわ。。逆走、するわ。。で、。。。上部構造はすっかり化石化しつつある。 

新陳代謝+二足歩行。。。も。。 アルマジロさんのコメントにいうサイボーグなど待つまでもなく、すでに、着々と衰えて 石化への道をたどっている。

繁殖力?
ヤバイッスね。


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armadillo

わたしもこの記事を「人間はどこに行くのだろう、どこまで行くのだろう」という思いとともに読みました。オレ様化する子供たちも、眼の変容も、古井戸さんおっしゃるとおり、「眼も、耳も、脳も、感覚も、道徳も、時々刻々変わる、つまり、人間は日々再定義される。」ということでしょうが、クローン技術やサイボーグ技術などと相まって、では変わらないものなんて何にも残ってはいないのではないかという虚無の深淵を覗き込むような気持ちになってきます。二足歩行さえ危ういのではないでしょうか、遠い未来社会では。
by armadillo (2006-04-06 00:10) 

古井戸

Art なるものの、Artificialなるもの、無意味さ、はかなさ、という感じですかね。
つまり、人間のなすこと、一切、ですが。。色即是空。
鴨長明もすでに、千年前におなじことを思ったんじゃないだろうか。

二足歩行が危うい時代には、みんなで イザリになればよし。イザリ芸術が生まれるでしょうよ。ミミズになれば、ミミズ文化もうまれるだろうし。

みんなでいざればこわくない。みんなで、ミミズればこわくない。
by 古井戸 (2006-04-06 02:12) 

はちや福中

「からだがあるだけ」  
私、よくそう思います。。。(笑)というか、そう感じます。 特に自分が何か表現している時はそこに戻って行く感じがします。ボディー全部を確認したいって感じるのです。人によるかもしれませんが、私の場合 →「 artなんてかっこいい響きに惑わされちゃうけれど、結局は体から湧くエネルギーの変換、本来とってもシンプルなのでは」と思うのです。その変換の過程が表現者によって違ってて、出力時にフィルターを沢山通す人、極力通さない人。。。色々なんでしょう。生声でさえ、フィルター(例えば、表現上の制約、譜面に支配される、ビジネス絡み、等)たくさん挟めばからむ程「からだ」から遠のいて行くでしょうし、かといって、オールデジタルなのに人臭い音もあるし、全く不思議です。 デジタルをボディーとして使ってる人と、ツールとして使ってる人の違いっていうのは、音楽の世界にいると聞くと何となくわかるものですよ。わは。

ちなみにワタシは、歌っていると先祖帰り ? を感じます。 パオー。

>人間は日々再定義される。 

なんまいだー。 ワタシもそう思います。
そこが素敵なこともあれば、素敵じゃないことも多々ある。。。ですね。
再定義、いいほうに行きたいものですけど、明日にならなきゃ解んないですね(笑)
by はちや福中 (2006-04-06 18:49) 

古井戸

私の母は、朝、めざめたとき。。
  ああ、今日も生きていた。。

と 思うんじゃけ。。

と言っています。 
今日も、一日、生きておられた、とわたしも、感謝の日々です。
できれば、明日も、あさっても。。

アナログ、と、デジタル、というのは人間様の悪しき観念だとおもいます。
人間の思考はそもそもデジタルなのです。脳の中のシナプスは
発火する
発火しない
の1,0で動いていることはほぼまちがいなのですから(あ、これも、観念)。

自然界の量も微細にたどれば、すべてデジタルです。だって、ちっちゃなちっちゃなツブツブ(原子や分子ちゃま)の振る舞いで温度だの電流だのという物理量が決定されるんですもの。はちやさまの唇からこぼれる 美しき言の葉も微細に追跡すれば、空気分子の運動から構成されその、ふるえが、空気分子を玉突きのように揺り動かして、波となりて(あたかも太平洋を渡る津波のように。。)聴衆の鼓膜経由で脳のシナプスを発火させます。。。100100000111100001000100100010 001000100010101111110000111001 0 110000011000100100011100001000 0100010000。。。という風に。  (あ、これも、観念)

こういう1010011 がなぜ私の涙腺を緩め(最近、緩まなくなったですが)、フェロモンを発散させ(最近、不調)るのか、。。まだ、解明されていないようです。
よくわかんないコメントになってしまった。
観念どすえ。
by 古井戸 (2006-04-07 02:25) 

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